埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十七回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

(9/13)


【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




(3)菊水楼の歴史と現在


【開業と、明治の菊水楼】

菊水楼は、明治24年(1991)7月に、現在の地に開業しました。

興福寺の南、猿沢の池の東、三条通沿いの地です。
3500坪という広大な地に、見事な庭園を配し、2階建ての料亭が建築されたのです。
当時、多数の名士を招いて、盛大な竣工披露宴が催されたとのことです。

菊水楼は、どうしてこんな一等地に、新たに立派な料亭旅館を開くことが出来たのでしょうか?


話しは、明治維新の頃に遡ります。

菊水楼を経営したのは、岡本家といって、古くから郡山藩主の御用商人を務め、「菊屋」という屋号の旅籠を経営していました。
幕末には、名字帯刀を許された特権的商人だったそうです。

明治維新頃の当主であった岡本善三は、明治4年(1871)の廃藩置県によって郡山藩が無くなると、奈良へ出て来て興福寺の宿坊であった興善院の賄い方となりました。
それが縁となり、興善院とその周辺の土地、3500坪を明治22年までの間に、何回かに分けて買い取ったそうです。


当時は、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、明治5年には興福寺が廃寺となり、塔頭や諸堂が裁判所や警察署に転用されていた頃です。
興福寺の五重塔が、5円とか25円とかで売りに出されたのもこの頃です。

当主、岡本善三は、多くの古美術品などが散逸してしまうのを憂いて、興福寺の宿坊・興善院を買い取ったと伝える話もありますが、先見の明があり、将来を見据えて大変な安値でこの一等地と宿坊を手に入れたということなのかもしれません。

岡本善三が手に入れた興善院の地に「菊水楼」を開業したのは、次の代の当主・岡本卯三郎(岡本家の養子)です。
岡本善三は、明治20年(1887)に没します。


大阪朝日新聞に出された「菊水楼」開業広告
卯三郎は、これまで買い取った興善院の宿坊を壊して、豪奢な料亭旅館を建築、菊水楼を開業するのです。

卯三郎は、事業の才覚に長けた人物であったようで、菊水楼建築のために、郡山の菊屋をはじめ全財産を売り払って、資金に充当しました。
この頃、大阪〜奈良間に鉄道が開通するなど、奈良地方の政治経済の中心が、郡山から奈良へ急速に移行しつつあるのを、しっかり見極めていたということなのでしょう。

開業当時、大阪朝日新聞に出した「奈良菊水楼開業広告」をみると、「郡山菊屋奈良支店・菊水楼」と書かれており、旅館のブランドネームとしては「郡山・菊屋」の名が、世間に知れわたっていたことが伺えます。

菊水楼は、開業当初から奈良の当代一流料亭旅館たるべく、建物から調度までハイグレードに凝ったつくりで贅を尽くしていたようです。
建築には、異例の2年の長きを要しています。

単に建物を建築するということではなく、廃仏毀釈の嵐のなかで維持できなくなった寺院の建造物を解体して、再び組み立て、あるいは配置し直し、新築する建物に組み込んで造り上げられており、それで時間がかかったのではと考えられています。



明治35年(1902)ごろの菊水楼




現在の菊水楼・外観


玄関の冠木門も、柳生の円成寺の塔頭の一つが廃寺になりかけていたのを、岡本家が買い取り、その門を移築したものです。

実は、「菊水楼」の屋号は、この買い取った円成寺塔頭に由来します。
この塔頭に、楠木正行(小楠公)が祀られており、楠木家の家紋が、名高い「菊水」であったとことから、もとの「菊屋」の屋号と掛け合わせ、「菊水楼」と命名したと伝えられています。



円成寺塔頭を移築した菊水楼・冠木門




菊水楼の門にかかる「菊水」の紋所


この頃の建物は、現在も残されており、「旧本館」「本館」「正門」「庭門」が、文化財保護法に基づく「登録有形文化財」に指定されています。


こうして開業した「菊水楼」ですが、明治時代には、一時「菊水ホテル」と称した時期もあったようです。
菊水楼には、今でも、ホテル時代に洋室であった天井の高い部屋が残されています。
奈良へ来訪する賓客には外国人もいたことでしょうし、ホテルブーム的なものもあったようです。

明治42年に、「奈良ホテル」が開業し、洋風ホテルの迎賓館として経営されるようになると「菊水ホテル」の呼称をやめて、「菊水楼」の呼称に戻し、一流料亭旅館の途に徹するようになりました。



【大正から昭和〜料亭文化の謳歌から大衆化路線へ】


このようななかで、菊水楼は奈良を代表する料亭旅館としての格式を高めていきます。

明治41年(1908)には、陸軍特別大演習で行幸された明治天皇の休憩所となっていますし、昭憲皇太后、乃木希典陸軍大将、東郷平八郎海軍元帥なども宿泊し、皇族、名士の宿という確固とした定評を築きました。

奈良ホテルが開業すると、その後は長らく、

「菊水楼で豪華な晩餐をいただいて、奈良ホテルで泊まる。」

というのが、奈良を訪れる人の最高級のパターンというようになりました。

大正、昭和初期は、高級料亭としての経営が波に乗り、

「菊水楼に出入りできるようになれば、名士の一員と云われるようになる。」

といわれた頃だと思います。

菊水楼の全盛時代とも云えるのでしょう。
高額所得、保有資産でも、奈良市の数指に入るようでしたし、二代目、卯三郎の長男・暢良氏は、奈良市会議員にもなりました。


戦中戦後は、菊水楼苦難の時期となりました。
太平洋戦争のさなかは、高級軍人の宿泊所となってしのいでいましたが、終戦直後は占領軍に接収されてしまいます。
菊水楼が「旅館再開届」を提出したのは、やっと昭和32年(1957)になってからのことです。


昭和40年代以降は、菊水楼の近代経営化の時代に入ります。

高度成長からバブル景気へと連なる時代で、宴席も多く持たれ、高級料亭・菊水楼の人気は、しっかりと維持されていきました。
三代目の岡本博行氏が経営に当たり、これまではいくらかかかるのかはっきり決まっていなかった宿泊や宴会の料金も正確に設定するなど、近代的な経営システムの導入をはかるようになります。
元林院町の検番に大勢いた芸妓も減ってしまい、舞妓の自前の養成も始めるようになりました。

しかし、バブル景気に陰りが見え長期の連続不況期になると、奈良を訪れる観光客もかなり減るようになり、従来の高級料亭旅館の経営方針を変更せざるを得なくなってきました。

「一見客は入れない」

というのが、菊水楼でしたが、大衆化路線を余儀なくされています。

昭和50年代に入ると、隣地に
「菊水レストラン」、
「和風レストラン・菊水楼別館」
を新築して、一般客をリーズナブルな価格で受け入れるようになりました。



菊水レストラン




和風レストラン・菊水楼別館


それでも、泊れば最低一人5万円という高級料亭旅館であることには変わりはなかったのですが、平成に入ると長期不況のなかで、体験ツアー的なものも企画されるようになっていきました。

時代の大きな流れの中で、日本の和の文化の伝統を伝える「高級料亭旅館」というものの経営の厳しさ、難しさを物語っているように思います。



【平成の菊水楼〜大変革の到来】


昨年(平成25年・2013)、驚きのニュースが新聞に載りました。
11/22付の朝日新聞奈良版に、このような見出しの記事が報じられたのです。

《「菊水楼」リニューアル 来春 結婚式場+レストラン 企画会社に業務委託 新規事業 収益の柱に》

「明治時代から続く老舗の料理旅館「菊水楼」(奈良市)が来春、結婚式場とレストランに生まれ変わる。

従来の料亭の事業に加え、ブライダルなどの運営企画会社『プラン・ドゥー・シー』(東京都千代田区)に業務委託し、新規事業を収益の柱として経営を再建する。

国の登録有形文化財の和風建築を生かし、若年層ら新しい顧客を獲得する狙いだ。」

別館2階を挙式会場に改装、「レストラン菊水」も披露宴に使えるようにリニューアルするそうです。
本館の料亭と和風レストランは営業を続けますが、旅館業については廃止するということです。

最近は宿泊者数が低迷して不採算に陥っていたようで、菊水楼・支配人は、

「菊水楼の建物と名前を残しつつ、若いお客様に使っていただける店として再出発したい」

とコメントしています。


近代奈良の歴史と共に在り、一つの文化を築き上げたとも云える「高級料亭旅館」が、姿を消し、変身をはかることになりました。

一つの時代が終わったのだなというのが、正直な気持ちです。

今の世の中で、昔風の和の文化を伝える料亭旅館を経営していくことは、もう無理なのだろうということはよく判るのですが、やはり寂しい限りです。



平成7年(1995)には「日吉館」が廃業しました。

平成25年(2013)1月には、150年の歴史を持つ「魚佐旅館」も閉館してしまいました。
魚佐旅館は、修学旅行などの団体の宿としての老舗でしたが、泊り客がビジネスホテルなどにシフトしてしまったようです。



「魚佐旅館」の廃業を報じる奈良新聞記事




奈良の、いろいろな特色、個性を持つ旅館が、次々と幕を閉じていくようです。
いわゆる「日本旅館」というものが、大変難しい時代になっているということを、今更ながらに思い知らされます。



(4)菊水楼、対山楼について書かれた本


菊水楼、対山楼などについて書かれた本を、ご紹介します。


「奈良の老舗物語」 三島康雄著 (H11) 奈良新聞社刊 【303P】 1500円


近代奈良の産業と文化を支えてきた「奈良の老舗」の創業から現在に至るまでの歴史やエピソードを綴った本です。

12の業界から17の老舗がピックアプされ紹介されています。
良く知られたところでは、墨の「古梅園」、清酒の「今西清兵衛商店」、奈良漬の「森奈良漬店」などがラインアップされるほか、花柳界の「置屋・お茶屋」の話まで語られています。

著者は、奈良商科大学の学長であった方で、老舗経営者本人にインタビューするなど、奈良の老舗の生い立ちから現在に至る繁栄や苦難の歴史が、判りやすい語り口で活き活きと綴られています。
大変面白い本です。

「宿泊業」という章が設けられ、そのなかで「奈良ホテル」「菊水楼」「魚佐旅館」の三つの宿がそれぞれ項立てされ、紹介されています。
「菊水楼」については、大変詳しく語られており、私の話のほとんどは、この本をベースにさせてもらいました。
明治の奈良の旅館の有様も描かれ、「対山楼」についてもふれられています。


「奈良百題」 高田十郎著 (S18) 青山出版社刊 【350P】 5.1円

郷土史家で奈良通の高田十郎が、奈良の古文化や古美術に因むエピソードや人物紹介を、百話にまとめた本です。

この「埃まみれの書棚から」で、度々ご紹介していますので、お馴染かと思います。

「奈良の対山楼」という項立てがあります。
対山楼が奈良随一の高等旅館であったころの話が綴られており、訪れた名士やエピソードなどが語られています。


「奈良市史 通史編第4巻」奈良市史編集審議会編 (H7) 奈良市刊 【622P】

明治維新から太平洋戦争終戦までの奈良の歴史が記されています。

「奈良市の成立」という明治期の奈良市について記された章に、名勝奈良の展開「対山楼と奈良ホテル」という項立てがされています。
明治期の対山楼、菊水楼、奈良ホテルの創業から繁盛の状況が、簡潔に記されています。

  



「奈良の昔話・第4巻」 増尾正子著 (H21) ブレーンセンター刊 【188P】 1000円


奈良町に生まれ育った著者が、近代奈良の市内あちこちの歴史、思い出話、エピソードを綴った随筆集です。

タウン誌「マイ奈良」連載記事が、単行本化されたものです。
著者・増尾正子氏は、奈良町の老舗砂糖店「佐藤傳」の4代目、奈良の生き字引と云われる奈良通で、執筆本も多くある仁です。
やさしく軽妙な語り口で、愉しく読んでいるうちに奈良通になっていける本です。

本書に「三条大路・菊水楼」という項立てがあり、菊水楼の歴史の話が判りやすく詳しく綴られています。
家同士も懇意であったようで、増尾正子氏のご主人が、菊水楼の女将に、

「お酒もホドホドにしておかないと体を壊しますよ。
増尾家の後を継ぐ大事な体なんだから、自重しないと。」

と、説教されたというエピソードも語られています。



奈良町の老舗砂糖店「佐藤傳」




次回からは、奈良を代表する迎賓館ホテル「奈良ホテル」の話です。
小説のなかに採り上げられた奈良ホテルについてや、ホテルの歴史を採り上げます。


 


       

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