埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十二回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

(4/13)


【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




【日吉館を愛した学者、文化人たち】


日吉館を愛した、学者たち、文士たち、芸術家たちのことを振り返ってみたいと思います。


先代が亡くなる昭和8年(1933)頃までに、日吉館を常宿にしていた人には、どの様な人がいたでしょうか?

日吉館には、大正6年(1917)以来の宿帳が残されています。



日吉館に残る宿泊人名簿


大正6年の宿帳には、
福井利吉郎、中川忠順、上野直昭、藤懸静也
といった名がみられます。
著名な美術史学者で文部官僚であった人々です。
日吉館を贔屓にした上野や福井らが、旅館としての性格付け、客筋について、親身にアドバイスしたというのは、先にふれたとおりです。

そのお蔭か、日吉館は学者や文士の常宿になっていきました。

先代・ツネオさんが女将の頃の、昭和5年末までの宿帳から著名人の名を拾うと、会津八一は別格として、こんな名前が書き残されています。

「正宗得三郎(画家)、硲伊之助(画家)、板橋倫行、安藤更生、
岸熊吉、鈴木信太郎(仏文学者)、田中一松、天沼俊一、
田澤坦、竹島卓一、前川佐美雄(歌人)、坪井良平、
今泉篤男(美術評論家)、料治熊太(古美術研究家)、駒井和愛、小林剛、
末永雅雄、亀田孜、田中重久、宮川寅雄、金森遵、
岡直己、富永惣一(美術評論家)、喜田貞吉、大岡實・・・・・・」

学者については、専門分野などをカッコ書きしませんでしたが、美術史、歴史好きの人なら、直ぐに頭に思い浮かぶような重鎮の学者の名前が目白押しです。
(若い人にはなじみが薄く、高齢者でないと、懐かしい名前と感じないのかもわかりませんが・・・・・?)
きよのさんが女将になるまでに、日吉館は「学者、文化人の宿」になっていたことが、よく判ります。


きよのさんが女将になった、昭和8年以降の宿帳には、どんな名前が残されているのでしょうか?

いちいち書き上げていると面倒くさいので、単行本「奈良の宿・日吉館」に掲載された、宿帳からの著名人ピックアップリストをそのままご覧いただきたいと思います。








以上は、昭和12年以降、終戦の20年までの宿帳の中から、著者・青山茂氏が、

「いろいろ想像の翼をひろげながら・・・・目につくままに宿帳から拾い出してみた。」

宿泊者の名前です。


これに続いて、このような名前がピックアップされています。











これは、きよのさんが女将になってからの昭和8年から、終戦の20年までの宿帳を通覧して、青山茂氏が、前記の人々に加えて、

「列挙した相客のほかに、パラパラ繰った宿帳から、なるべくすでに引用した名と重複を避けて目にとまったものを、6冊目(昭和8年分)以後終戦前の分を列挙すると次のようだ。」

として、紹介されている名前です。

これらの人々について、いちいち説明する必要はないと思いますが、仏教美術史、建築史、古代史などの世界の、綺羅星の如くの著名な学者たちのオンパレードです。
面々の名を見ていると、法隆寺論争でも薬師寺論争でも、何でも、この日吉館で居ながらに白熱の議論が戦わされそうに思えてきます。
学者の人々に加えて、作家、芸術家、評論家などの名が、これまた贅沢に連ねられています。

日吉館は、まさに「奈良の文化サロン」であったというのが、本当に納得できます。


宿帳から紹介されている名前の年齢をみると、20歳代から30歳代がほとんどなのに気づきます。
学者達が研究者を志した少壮の頃、あるいは芸術家が修業時代を過ごした頃、この日吉館の泊り客となっていたことが判ります。

「奈良学は、日吉館で形成されていったのだ。」

という話もありますが、まんざら言い過ぎではないように思えてきます。


日吉館を贔屓にし育てた人と云えば、その筆頭が会津八一であったのは衆目一致という処でしょう。

実は、会津に勝るとも劣らぬ日吉館贔屓の学者が、もう一人いました。

「法隆寺非再建論」で有名な、足立康です。



日吉館を贔屓にした足立康氏


喜田貞吉との「法隆寺再建非再建論争」で、数多くの鋭い論文を続々と発表し、法隆寺学の発展に大きな寄与をした人です。
皆さんよくご存じの名前だと思います。

日吉館の宿帳に、足立康の名が初めて登場するのは、昭和8年(1933)10月のことです。
先代女将のツネオさんが亡くなり、きよのさんが女将になりたての頃になります。

その時、足立康は38歳。

足立は、日吉館が大変気に入ったのでしょう。
直ぐに長期滞在するようになり、翌年からは、一年の半分くらいの日数は、日吉館を根城に奈良に滞在するようになったのだそうです。

その頃は、足立対喜田の法隆寺再建非再建論争が、ヒートアップしていた頃で、この論争を報道する新聞に

「再建論の喜田貞吉博士も、非再建論の足立康博士も、共に奈良の日吉館党・・・・」

といったエピソード記事が書かれたこともあるほどでした。


これだけ日吉館を贔屓にした足立康ですが、実は会津八一のことが嫌いでだったのです。
体質的に虫が好かなかったようです。
足立の泊る部屋に会津八一の額や軸をかけておくのは禁物でした。

きよのさんは、

「足立先生が時々来てもらうと、額の裏の掃除が出来て・・・・」

と軽口を飛ばしていたようですが、足立が来るときにはこれらの額や軸を外すのに大慌てという有様だったとのことです。

足立は、きよのさんに肩入れして、日吉館を、
「東大を中心とする学士会館的な大きな旅館に新築しよう」
と支援を持ちかけていたとのことです。
きよのさんは、早稲田の会津八一との間で、困り果てていたという時もあったとのことです。

足立康は、昭和16年(1941)、45歳で早逝しますが、

「もし、足立先生が長生きなさってたら、おばちゃんの命は、とても今日までもたんかったやろな。
長生きしてほしかった先生やったけど・・・・・」

後年に、きよのさんはこんな思い出話をしていたそうです。



【日吉館を愛した若者たち】


私が日吉館に泊った頃、昭和40年代ですが、洗面所の処に「日吉館利用者一同」という名前を付して、こんなハリ紙が貼ってありました。





「日吉館は旅館ではありません」

というフレーズには違和感を覚える方もいらっしゃるでしょうが、一度泊まってみると、いちいち説明しなくてもすんなりわかってしまいます。
お茶が欲しければ炊事場に取りに行く、食事がすんだら自分の食器は片づけて台所に返しに行く。
それがしきたりとなってしまっていました。

「入浴は実力で入りましょう」

というのは、笑ってしまいますが、日吉館の狭い風呂に入るのは、結構大変だったのです。


先に記したように、昭和40年代に入ると、日吉館は奈良の美術と文化を愛好する学生たちが集う宿、大学の古美研などが団体で泊る宿になっていきました。
小さな部屋で追い込みでごろ寝が当たり前ですが、超格安で腹一杯すき焼きを食べさせてくれる宿でした。
それだけなら、ただ「飯が上手い安宿」ということなのですが、日吉館を愛する若者が多くいて、

「泊り客の方が日吉館とオバサンを愛し、日吉館を支えていく」

という伝統は、強く守られていきました。


日吉館に長逗留しているうちに、泊り客なのか、日吉館の従業員なのか、訳が分からなくなってしまう人が、結構いたようです。
こうした日吉館党の若者に支えられて、日吉館は営業を続けていた、とも云えるのかと思います。

日吉館党の中に、美術・文芸評論家の針生一郎氏の娘・千絵さんもいたようです。
こんな話もあります。
千絵さんがある新聞社の建築ゼミナールを聞きに行っていたら、顔見知りに

「あれ!日吉館のおねえちゃん、何でここにいるの?」

といわれ、卒論のために聞きたいものがあってきたのだと答えると、

「えっ!きみ大学生だったの」

とびっくりされた。
というものです。

この千絵さんは、同じ日吉館党の根本信義氏と結婚しますが、そのあたりの話は、
単行本「奈良の宿日吉館」の「日吉館の星霜」(青山茂執筆)、「父娘二代の縁」(針生一郎寄稿)
に詳しく語られています。


このように親しまれた日吉館には、「勝手連」ではないですが、日吉館シンパの会が自然発生的に多く造られていきました。

「日吉館を愛する者」「日吉館を守る会」「カサの会」「二月堂夜の会」

等々の会があったようです。

会の主旨はそれぞれでも、きよのさんという一本筋の通った一途なオバチャンへの共感と、旅館であって旅館でない日吉館を守りたい、という思いの会であったのです。


「日吉館を愛する者」という高松一高の先生を中心としたグループは、こんなパンプレットをつくって日吉館に送り届けたそうです。

一枚刷りの厚手のパンフレットで、表に会津八一の
「おおてらの まろきはしらの・・・・・」
という歌を刷り込み、
裏に「日吉館に泊られる友達の皆様へ」という表題の一文がびっしり刷り込まれています。






パンフレット「日吉館に泊られる友達の皆様へ」の冒頭と末尾



長文なので、冒頭と中段、最後の部分をご紹介します。

「日吉館は、日本の伝統の美術・芸術・学問を眼のあたりに見ることが出来る、日本で一番誇りのある古都、奈良の中に静かに在る建物です。
ですから、ここは普通の旅館ではありません。
奈良を愛する学徒が学び憩う場所です。・・・・・・・・」

「日吉館は、そういう友達との出会いを創ってくれる場所でもあるのです。・・・・
第一に、お酒を飲んで、わいわい騒ぐところではありません。
お若い人々へは、9時〜10時過ぎまで帰ってこないことのないようにお願いします。
お母さんが心配するように、日吉館は心配しますから。」

「はじめて日吉館を訪れた方々へ、お願いせずにはいられないのです。
日吉館がいつまでも、このままの姿で、静かに在るように、若人の勉強する場所でありますように、と。
どうぞ、歴史を受け継いで、奈良の日吉館に憩う学徒の誇りをお持ちください。」

日吉館を愛する者一同


このパンフレットが作られたのは、昭和54年(1979)のことです。

その年の初秋、きよのさんが病床であった枕元に、大きな梱包が届けられました。
なかには2〜3万枚はあろうかと思われる、「日吉館に泊られる友達の皆様へ」というパンフレットが入っていたのです。
日吉館を愛するグループの同志たちが、ポケットマネーを出し合って作り上げた、後輩たちへの檄文とでもいうものでした。
日吉館の玄関を入った処に、「自由にお取りください」と置かれていたようです。


もうひとつ、こんなエピソードもご紹介しておきたいと思います。

昔、日吉館の隣に。「下下味亭」(かがみてい)という、大変美味しい「かやくご飯屋さん」がありました。
覚えておられる方も多いと思いますが、私も、結構昼ご飯を食べに入ったものです。
この「下下味亭」も、日吉館ゆかりの店です。

青山茂氏は、このように綴っています。

「日吉館の台所で、そのあざやかな手さばきとアイデアで、かえっておばちゃんが教えられたほどの才女だった照ちゃんは、東京芸大で絵画をやっていた福島勝治と結婚して、今同じ登大路の家並みの一番東の端で、めし屋を開いて成功している。
昼食どきに、アンノン族からおばさま族まで、行列をつくって順番を待っている下下味亭がそれである。」

今も「下下味亭」はありますが、ビルの2階のおしゃれなカフェ&ランチの店になっています。

最近、食事をした時、お店の人にお聞きしたら、今は、先代の御親戚の方が経営されているとのことでした。

 

日吉館の並びにある「下下味亭」



 


       

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