埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

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【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




(3)日吉館の歴史と、ゆかりの人々


【日吉館、その生い立ち】

日吉館と云えば、誰もが名物女将の田村きよのさんのことを思い浮かべます。

ついつい
「日吉館の創業は、田村きよのさんに始まるのではないか」
と思いこんでしまうのですが、

きよのさんは昭和5年(1930)に、日吉館の田村家に嫁に来たのです。
それ以前から、日吉館は旅館として営業していたのでした。


「奈良の宿・日吉館」の創業時代を振り返ってみたいと思います。


日吉館の創業をたどると、明治25年(1892)ごろに遡ります。

田村松太郎、ツネオ夫妻が、登大路の家に、同居人をおいて月々間代をもらう下宿屋のようにしたのが始まりです。

松太郎・ツネオ夫妻は、奈良の山持ちで財閥だった木本家の用人として働いていたのですが、木本の旦那が松太郎さんの長年の山守の労をねぎらい、登大路の持ち家の一件を貸し与えてくれたのです。
親子3人にしては広すぎる家で、下宿や貸部屋にすれば生活の足しなるだろうとの「木本の殿さん」の配慮であったとのことです。

はじめはもっぱら下宿屋であったのですが、旅館を兼ねても同じ手間ということで、大正3〜4年頃に、下宿兼旅館業となったようです。

「日吉館」という屋号は、松太郎さんが名付けたものです。
「日吉館」という名前の由来には、こんな話が伝わっています。

一介の山守から旅館の主になった松太郎さんは、得意満面で、

「木本の殿さんが、わしの働きを認めてくれたからこそ、こんな出世が出来たんや。
わしは今太閤の日吉丸みたいなもんや。」

ということで、秀吉にあやかり「日吉館」という屋号にしたということです。

下宿屋兼旅館業をはじめた頃は、ごく普通の仕事人や旅人の宿であったようですが、数年のうちに、奈良美術に縁のある学者が、よく日吉館を利用するようになってきたようです。
奈良帝室博物館のすぐ傍に在ったということからなのでしょうか?


日吉館には、大正6年(1917)以来の宿帳が残されています。



日吉館に残された、大正以来の宿帳



大正6年の宿帳には、福井利吉郎、中川忠順、上野直昭、藤懸静也といった名がみられます。
皆、著名な美術史学者で文部官僚であった人々です。

上野直昭氏
福井利吉郎や上野直昭などは、松太郎さんに、

「並みの旅館に成り下がっては駄目だよ。
お客に選ばれるより、お客を選ぶ旅館になりなさいよ。」

と、親身になって、日吉館の経営についてのアドバイスをしたそうです。

日吉館の旅館としての性格付けは、この頃に始まると云って良いのかもしれません。
大仏観光などの観光旅館的に営業する方法もあったのでしょうが、
「学者、文人などを顧客とする旅館」
の方向に歩んでいったのでした。

大正から昭和にかけては、下宿客や長逗留の客がほとんどであったようですが、客筋は、学者、新聞記者、芸術家といった人々が主流になってきたようです。

後に日吉館の隣組に店を構えるようになる、飛鳥園・小川晴暘もまた、大正9年(1920)には日吉館の下宿人となり、奈良での生活を始めたのでした。



【日吉館を愛し、育てた会津八一】

日吉館の前に立つ会津八一
日吉館と会津八一の縁は、切っても切れません。

会津八一は、昭和31年(1956)、75歳で亡くなるまで、奈良の常宿は必ず日吉館でした。


会津八一が、初めて日吉館に泊ったのは、大正10年(1921)10月のことです。

会津八一は、明治41年に初めて奈良を訪れますが、宿は、当時奈良随一の料亭旅館と云われた「対山楼」でした。
その対山楼が、大正の中頃店を閉めてしまってから奈良の常宿は無く、「吉沢屋」などの旅館に泊まっていました。

板橋倫行や吉武正紀が、日吉館が大変良いというので、初めて泊ったということだそうです。

大正10年10月28日の宿帳に、

「会津八一 41歳 教員」

と記された自筆の署名が残されています。



会津八一の署名のある宿帳 (上段・真中)



会津八一が、小川晴暘と初めて出会ったのも、この時のことです。
日吉館の隣家の表のウィンドウに飾られた石仏写真に感嘆し、写真家・小川晴暘を知ることになるのです。


このあたりの事情については、会津八一の門人、教え子である安藤更生が、随筆集「南都逍遥」の「奈良雑記」という章で、詳しく語っています。
こんなふうに書かれています。

会津八一と日吉館の思い出を綴った「安藤更生氏」
「これから(日吉館に初めて泊った時から)、会津八一と日吉館は切っても切れないものになってゆく。

奈良では、たまに飛鳥園と観音院に泊ったほかは、30年間、殆ど日吉館だった。
当時は建物も新しかったし、先代の老夫婦の質樸で親切な人柄が大変気に入った。

・・・・・・・・

先代の爺さんは、無口で客の前へは出なかったが正直者だし、婆さんは誠心誠意、お客の世話をしてくれたので、気安く泊っていられた。

秋艸道人(会津八一)が初めて泊った時、一円茶代を置いて出たら、こんなに頂戴して申し訳ないと婆さんがどこまでも追掛けてくるので閉口したそうだ。」


会津八一自身も、自著「自註鹿鳴集」の南京新唱の一節に、

自註鹿鳴集
「奈良の宿にて」
をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を
いへ は おもはす いにしえ おもう に

という日吉館で詠んだ歌を載せています。

その自註には、このように記されています。

「奈良の宿
作者は明治41年(1908)の第一遊には、東大寺転害門外の『対山楼』といふに宿れりしも、その後は登大路町の『日吉館』を常宿とす。」



日吉館の名物看板も会津八一が揮毫したものです。

日吉館の玄関の屋根上には、幅151p、高さ67pという、大きな名物看板(扁額)がかかっていました。

「旅舎 日吉館  庚午春日 秋艸道人顕」

と見事な文字が刻されています。



日吉館の名物横看板 (会津八一揮毫)


また、軒先には、「ひよし館」と書かれた、縦看板がつるされていました。
日吉館の縦看板拓本
(会津八一揮毫)


いずれも、会津八一が、昭和5年(1930)に、日吉館のために揮毫したものです。


安藤更生は、「南都逍遥」の「奈良雑記」のなかで、このように語っています。

「いま日吉館の表には、秋艸道人の書いた看板が、横のものと縦のものと2枚かかっているが、あれは無口なおやじがうやうやしく出て来て、是非先生に書いていただきたいと願ったので喜んで書いたものだ。

昭和5年の春の作で、道人の看板としては極く古い方に属し、今日では日吉館と共に奈良の名物となった。」


この二つの縦・横看板は、現在は、早稲田大学会津八一記念博物館に保管・所蔵されており、「会津八一記念展」などの時に展示されています。




屋根に横看板が掲げられ、軒先に縦看板が吊るされた日吉館(昭和52年・1977)



会津八一は、この看板の他にも、こよなく愛した日吉館のために、いくつもの額や軸物の書を残しています。
「観仏三昧」「我思古人」と書された、立派な横額も日吉館の中に飾られていました。



日吉館に飾られていた會津八一書「観仏三昧」の額


その昔、二階の奥の四畳半の座敷には、

「おほてらの まろき はしら の つきかげ を
つちに ふみつつ ものをこそおもへ」

という有名な歌の軸物がかかっていた、と云います。



田村きよのさんが、この日吉館に嫁いできたのは、日吉館に会津八一の看板がかかった2年後、昭和7年のことでした。

会津は、きよのさんのことを大変気に入り、我が子のようにいつくしんだそうです。

会津八一愛用の四畳半の角部屋
ある時は一人で、ある時は早稲田の学生を引率して日吉館に泊りますが、きよのさんにはいつも優しく、

「○○の話をしてやるから、部屋に来なさい」

といって、きよのさんに話を聞かせたそうです。

昼の仕事で疲れたきよのさんが居眠りをしてしまっていても、決して怒らずに、

「ためになったか、それはよかった。」

と、会津八一の普段の人柄からは、信じられぬようなやさしさであったそうです。


もちろん、超強面、峻厳無比の会津のことですから、学生には極めて厳しく、気に入らぬことがあると、

「キミは即刻帰りたまえ。今すぐ荷物をまとめてだ!!」

という雷が落ちることなどしょっちゅうのことでした。

きよのさんは、叱られた学生さんを、帰らせる風情で外に連れ出し、裏に回ってこっそり宿に入れてやった後で、

「駅まで送っていったのですが、電車がありませんでしたので・・・・・」

と言い訳して、会津に謝るといったことが、再三あったそうです。



日吉館前での、会津八一と田村きよのさん



このように、会津にこよなく愛された日吉館であり、可愛がられたきよのさんであったのですが、生前の最後の別れとなったのは、なんとも心残りで残念な別れであったそうです。


青山二郎氏の「日吉館の星霜〜田村キヨノ半生記」を、そのまま引用すると、このように書かれています。

「心残りだとおばちゃんが思うのは、秋艸道人が昭和31年に亡くなる前、最後の日吉館を訪れた時の後味の悪い別れだった。

この時相客と気まずいことがあったらしく、秋艸道人はだまって荷物を持って日吉館を出てしまった。
先生の荷物やステッキのないのに気が付いたおばちゃんは、その相客と共にもしやと近鉄奈良駅に走った。

案の定、道人は京都行のホームに立っていた。
『先生、お戻りください』と呼びかけたが、『帰れ、お前なんか帰れ』と怒鳴りつけられ、電車はそのまま出てしまった。

相客とのいざこざとはいえ、おばちゃんは三十数年、日吉館の大黒柱であり、父のように思っていた会津先生との別れが、あのような形になったことを、今も悲しく思い出す。」

会津には、激すると留まるところを知らずといった面が多くあったところは、皆さんご存知のとおりですが、上司海雲氏は、後にこうした出来事などについて随筆で「老人の駄々、老残の悲哀ではなかったか」と回想しています。

日吉館の育ての親、会津八一は、昭和31年(1956)、冠状動脈硬化症でその生涯を閉じました。

享年、75歳でした。



きよのさんは、恩人とも云える会津八一を偲んで、日吉館の庭に「会津八一の歌碑」を建立しました。
会津没後18年の、昭和49年(1974)のことです。

「南京餘唱」に、「奈良のやどりにて」と題し詠まれたもので、

かすがの の よ を さむみ か も さをしか の
まち の ちまた を なき わたり ゆく

という歌碑が建てられました。



昭和49年に日吉館庭に建てられた会津八一歌碑



平成2年には、同じ歌を刻んだ、新しい歌碑が建立されました。

旧碑の文字が見えにくくなったため、新碑を造ったとの解説もありますが、きよのさんが、「歌碑の彫りが気に入らん」とつぶやいたので新碑を造ったという話もあるようで、よく判りません。



平成2年年に日吉館庭に建てられた会津八一歌碑・新碑



この二つの歌碑は、日吉館廃業後は、すぐそばの飛鳥園の庭に移されて、現在も保存されています。



日吉館の会津八一歌碑が保存されている、古美術写真の飛鳥園



日吉館には、この二つの歌碑の他に、もうひとつ「会津八一の歌碑」があったようです。

宮川寅雄氏が「奈良の宿・日吉館」に寄せた寄稿「日吉館のきよのさん」に、こんな話を綴っています。

宮川寅雄氏
「ある年、きよのさんは、会津先生の歌碑を建てるといい出して、私は相談を受けた。
先生が、かつてきよのさん夫妻に贈った奈良の歌、

うちふして ものもふくさの まくらべを
あしたの しかの むれわたりつつ

の一首を、庭にあった石に彫ることになり、私は依頼によってその碑陰を書いた。

その建碑の日に他用で往けず、しばらくして日吉館で、その碑を見た。
きよのさんはオールド・パアをあけて、碑にも濯ぎ、私にも飲ませ、いささか建碑を祝った。
彼女が、半世紀の日吉館の生活の中で、会津八一の存在を、いかにも重く考えていたかという証である。」


私は、この歌碑のことは知らず、見たこともないのですが、今はどこに置かれているのでしょうか?
ご存じの方がいらっしゃったら、お教えいただければと思います。


 


       

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