埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百八十三回)

   第二十九話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その6>奈良の仏像盗難ものがたり

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【目次】


はじめに

1. 各地の主な仏像盗難事件

2. 奈良の仏像盗難事件あれこれ

(1) 法隆寺の仏像盗難

・パリで発見された金堂阿弥陀三尊の脇侍金銅仏
・法隆寺の仏像盗難事件をたどって
・法隆寺の仏像盗難についての本

(2) 新薬師寺・香薬師如来像の盗難

・失われた香薬師像を偲んで
・香薬師像盗難事件を振り返る
・その後の香薬師像あれこれ

(3) 東大寺・三月堂の宝冠化仏の盗難事件

・宝冠化仏盗難事件の発生
・宝冠化仏の発見・回収と犯人逮捕
・三月堂宝冠化仏盗難事件についての本

(4) 正倉院宝物の盗難事件

・正倉院の宝物盗難事件について書かれた本

(5) その他の奈良の仏像・文化財盗難事件をたどって



【香薬師像盗難事件を振り返る】


さて、そろそろ、香薬師像が盗まれた事件はどのようなものであったかを振り返りたい。



盗難に遭った新薬師寺・香薬師像(小川晴暘撮影)



先に記したように、香薬師像は3回、盗難に遭っている。


第1回目は、明治33年(1900)。

第2回目は、明治44年(1911)。

この2回の盗難は、幸いにして山中に捨て置かれているのが発見され、無事新薬師寺に戻された。

第3回目は、昭和18年(1943)のこと。


そして今も行方知れずになっている。


第1回目の盗難のときは、幸い、奈良市内の瑜伽山から発見された。

瑜伽山は、奈良ホテルの通りを隔てた東側にある小さな山で、新薬師寺からほど近いところから発見されたことになる。
明治33年のいつ頃、どのように盗まれ、発見されたのかは、この盗難の記事や資料を見つけられなかったので、よく判らない。
多分、黄金仏と信じて盗み出したが、銅製の仏像であることが判り、山中に捨て置いたのではないかと思われる。


第2回目の盗難は、明治44年(1911)6月17日深夜に発生した。

二週間後の6月30日、大阪府住吉付近の山林に放置されているのが発見された。

この時の盗難と、発見の顛末については、詳しい記録を見つけ出したので、少し紹介しておきたい。
「奈良県庁文書」の中に、「新薬師寺香薬師盗難届・発見届」が保管されていたのだ。

この「奈良県庁文書」は、奈良県立図書館情報館に保管され公開されていた。
そのなかに「明治44年〜大正8年社寺宝物一件」と題する記録があり、ここに県庁など当局宛てに作成提出された「新薬師寺香薬師盗難届・発見届」が保管されていたのだ。
それも、PDFベースにデータ化され、何時でもネット上で閲覧可能になっている。
(この記録DBがあることは、奈良県立図書館情報館の図書・公文書グループの方に、ご教示いただいた。)




奈良県知事あてに提出された新薬師寺・香薬師盗難届








内務大臣あてに提出された新薬師寺・香薬師盗難届
盗難に遭った時の状況が詳しく記されている



さて、この内務大臣や奈良県知事宛ての「新薬師寺香薬師盗難届」によると、盗難の顛末については、このように記されている。

6月14日の午後2時ごろ、拝観者のため本堂安置の厨子を開いたが、その時は香薬師に異常はなかった。
6月17日夜は、住職は留守にしていたが、留守居の女性によれば、深夜11時ごろ、本堂で異様な物音が聞こえたのだが、そのままにして見回りはしなかった。
翌日、戻った住職は、本堂の錠前などを点検したところ、異常がなかったのでそのままにしておいた。
6月19日朝、本堂内見回りの際、住職が厨子の扉を開いたところ、香薬師像が消えていた。

奈良県知事あてに提出された「国宝盗難御届」書には、「代価 金壱萬円」と記されているのが面白い。


もうひとつ面白い話は、この香薬師盗難事件の発生は、新聞報道されなかったことだ。
6月27日付けの現地の新聞「奈良朝報」に、こんな主旨の記事が載っている。

新薬師寺の香薬師像がいつの間にか盗み去られたという評判だが、一向新聞に出ない。
聞けば、警察や検事局から掲載を差し止められているらしい。
こんな話を差し止める当局の理由がよく判らないが、新聞に書きたてた方が世間の注目を浴び早く発見できるのではないか?



香薬師像が盗難に遭ったとの情報を伝える記事 (明治44.6.27付・奈良朝報)


当時の「お上」の報道管制の有様の一端を、こんなところで垣間見ることができたような気がする。

ところが、「香薬師像の発見」の記事は、7月2日付けの奈良新聞、奈良朝報にしっかり発見顛末話とともに掲載されていた。
当時は、そういうものであったのであろうか?



香薬師像発見を報道した新聞記事 (明治44.7.2付・奈良朝報)



香薬師像は2週間後の6月30日、大阪府住吉付近山中で発見された。
これも、奈良県庁文書「香薬師像発見届」によって、その有様をご紹介しよう。





内務大臣あて新薬師寺・香薬師発見届





発見届に添付された香薬師像の写真


「香薬師像発見届」によると、

6月30日、大阪府下東成郡墨口村大字上住吉小字浄土寺山草叢中に放棄してあるのを、大野松之助が拾得して、警察に届け出た。
確認の処、香薬師像に相違ないことが判明した。
しかしながら、右手首は古傷があった処から折れ離れ、両脚は足首から切断されていた。
手首の方は残されていたが、足首は見あたらない。
拾得者の大野松之助には、慰労金百円を与え、香薬師像は元の新薬師寺に安置された。

このように記されている。

犯人は、この香薬師像を黄金の仏像と思い込み、犯行に及んだのは間違いがないように思われる。
手首や、両足首を金鋸などで切断してみた処、黄金などではなくただの銅製であることが判って、その処置に困って、山中に捨て去ったのではないのだろうか?
この時切り離された両足首は、その後もついに発見されなかった。

鶴林寺・聖観音像

金銅仏が、黄金仏だと誤解されて、純金狙いで盗難に遭うことは、昔はよくあったようだ。

近年では、兵庫・鶴林寺の金銅・聖観音立像が、昭和38年(1963)7月、盗難に遭いすぐに犯人が捕まり、六甲山中天王谷川の川底から発見されたが、これも黄金仏との思い込みからの犯行であった。

お寺の案内人が、日頃「黄金仏」という説明をしており、それを信じ込んだ犯人が犯行に及び、手首、天衣などに金鋸を入れたが、「金」ではないことが判り、山中に捨てたのであった。



第3回目の盗難は、昭和18年3月26日のことであった。

香薬師像は、明治時代に2回の盗難に遭ったこともあり、大正7年(1918)、本堂の西南、庫裏の南に香薬師堂が建立され、本堂から移されて、この香薬師堂に安置されていた。



新薬師寺・香薬師堂


犯人は、この香薬師堂の二重のカギを破って侵入し、香薬師像を盗み出した。
香薬師像に付けられた両足首の義足(盗難の時切り取られ、新たに取り付けられたもの)と、接着されていた右手首(これは当初のもので、前回盗難で折れたもの)は、その場に残されていた。

飛鳥園の小川晴暘は、この盗難について、このように記している。

「昭和18年3月26日午前4時頃、又東大寺の末寺である新薬師寺の香薬師如来像が盗難に懸ったという大事件があった。
住職の福岡隆聖氏は二月堂のお水取りの参籠が終わって、疲れた体を自坊に帰って休めたばかりであり、香薬師堂で八貫余りもある鋳銅の本尊が手荒く盗まれている物音にも目を覚まさず、猫の騒ぐ物音だろうと夢うつつに聞いていた。

香薬師像も黄金仏だと、堂守が宣伝していたのが間違いのもとで、これまでも再度盗難に会っている。
第一回で両足を失い、第二回は右の挙げた手首が切断された。
(注:小川は第一回で両足を失ったとしているが、他の資料では第二回の時に失ったとしているものもあり、いずれが真実かははっきりしない)

この時は、泥棒も黄金だと思い込んで切ってはみたが、只の純銅であったので切り落とした手も共に捨てて行ったのであった。

・・・・・・・・

今度は三回目の盗難であって又々黄金のつもりで盗まれたか、骨董泥棒か今の所見当はつかない。
然し手首も両足も落としていくような、そそっかしい泥棒であるから前回同様の黄金泥棒かも知れない。
美術泥棒ならば、必ずどこかに大切に保存しているに違いないし、また必ず出てくる時があるであろう。」
(「宝冠銀物の再現」小川晴暘〜東大寺法華堂の研究所収)


この「国宝」名品の盗難は、奈良では重要事件として扱われた。

ちょうど、これから採り上げる「三月堂・不空羂索観音宝冠盗難事件」が、事件発生来7年目の時効が切れかかっている直前であったこともあり、奈良県警では両事件を併合操作することとなり、大掛かりな捜査が展開された。

この捜査の苦労、努力により、不空羂索観音像の宝冠は発見に至り、無事元に戻されることになったが、香薬師像の方は発見されず、残念ながら行方不明のまま現在に至っている。

たしかに、小川晴暘が推測するように、手首や両足首を置いたまま盗み去るような犯人であれば、「美術・骨董品狙い」なのではなくて、「黄金仏狙い」であったようにも思える。
そうであれば、戦中戦後の大混乱期、困窮期を経ているだけに、香薬師像が、どこかに秘密に保管されている可能性も厳しいのかもしれない。


ところで、昭和18年の香薬師像の盗難事件、当時の新聞にはどのように報道されたであろうか?

<国宝「香薬師」盗まる>

奈良市高畑町新薬師寺に安置の国宝香薬師如来像が、25日午後5時ごろから26日午前9時ごろまでの間に、盗み出されてゐるのを発見した、香薬師は白鳳時代屈指の逸品で、古美術行脚(あんぎゃ)者の渇仰(かつごう)の的であった。



昭和18年の香薬師盗難新聞記事 (S18.3.27朝日新聞東京版)


3月27日、朝日新聞(東京)に出された記事は、全文でこれだけだ。
たった7行、一段のベタ記事に過ぎない。

太平洋戦争の真只中、戦争記事第一で、気象情報まで秘匿されていた厳しい報道管制下の頃であった。
第一級の名宝「香薬師像」の盗難事件も、この程度にしか扱われなかった。



 


       

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