埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十八回)

  第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(1/6)

《その1》 近代法隆寺の歴史と宝物の行方

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 余りに著名なこの句、
 正岡子規が、この句を吟じたのは明治28年の10月のことであった。
 「法隆寺の茶店に憩いて」という前書きがあり、当時、聖霊院前鏡池のほとりにあった茶店で憩ったときの句という。


 この茶店は、大正3年境内整備のため立ち退きとなったが、跡地辺りに記念の「句碑」が建てられ、今もひっそりとその地に在る。

 当時の法隆寺は、維新後の荒廃から立ち上がる第一歩として、夢殿や綱封蔵の修理に着手した頃。
 訪れる人も疎らでひっそりとして、金堂内拝観という人などめったにない。
 秋晴れの静かな佇まいの境内に、西円堂鐘楼の鐘の音が、透通るように響くという風情であったのだろう。
 実はこの句、正岡子規は「東大寺」で作ったのを、情景描写や語感から、「法隆寺」と改め世に出した、というのが真実らしい。

 それはさて置き、この頃に立ち戻り、訪れる人もなく深閑とした西院伽藍、金堂内陣で釈迦三尊・四天王などと、心静かに対面、拝することが出来るものならば、「飛鳥白鳳のいにしえへの想い、その美しさへの感動も高まること如何ばかりか」との思いを致すのは、私ばかりではないのだろう。

 今や、そんな話は夢物語。なんと言っても世界文化遺産。
 駐車場には多くの観光バス、電車の切符売り場のような窓口で拝観券を買い、改札口で鋏を入れてもらって入場すれば、境内、百済観音堂は修学旅行生や団体客で雑踏のよう、釈迦三尊前で長居するのも憚られるという有様。
 さりとて、檀家、檀徒無き寺にとって、観光拝観収入が無しには、寺宝の維持管理もままならぬというのも現実。
 人は身勝手なもので、時には、優れた仏教美術、古寺古仏への人々の認識、保護への理解がまだまだ足りぬなどと評し、また世に知られ数多くの人々が訪れるようになると、俗化したなどと嘆く。

 近代法隆寺もまた、荒廃から幾多の苦難を経て維持、復興し、現在に至るわけだが、
その話に入る前に「古き良き時代の法隆寺」の有様を、せめて先人の残した文章から偲び、気持ちだけでも、

 「観光バスの行かない・・・静かな法隆寺」

に身を置いてみたい。

 

1.明治期の法隆寺探訪記から

 明治41年頃の法隆寺。
 天平初期塑像の傑作、五重塔塔本塑像。
 今では、金網の奥の奥の方。暗すぎて眼を凝らしても、懐中電灯を照らしても、なかなかはっきり見ることができない。
 当時、法隆寺を訪れた里見は、傍に寄って、その一体一体を、手に採って見ることが出来た。
 その有様をこのように書き記している。

 「五重塔の地階、も可笑しいが、つまり一番下に、一尺たらずの塑像が沢山おいたッぱなしで、『手を触る可からず』の禁札さへ出していなかった。欲心からでなくとも、蒐集癖で、つい持って行きたくなる人もありそうなものを、思へば暢気な話だった。我々は、平気でそれを手に把りあげ、空洞かどうか、ひっくり返して見たりしてから、なんのこともなくまたもとの場所に据ゑて帰ってきたが、今からでは、惜しいことをした、と思へないこともない・・・・。」

 「若き日の旅」里見著(S15)甲鳥書林刊

 本書は、里見が志賀直哉、木下利玄の三人づれでの旅の思い出を記したもの。
 のどかで暢気なもの。また、羨ましくもある。
 こういう風であったからかどうかは知らぬが、現実に五重塔塔本塑像は、数体が、寺から流出、現在博物館や個人蔵になっている。

 この頃、法隆寺を訪れた喜田貞吉が残した法隆寺訪問の思い出記があるが、これまた余りののどかさ、おおらかさに呆れるばかりだ。
 喜田貞吉は、ご存知、法隆寺再建非再建論争の再建論陣営の盟主。
 明治39年12月、喜田は法隆寺を訪れ、隣地在住で「法隆寺の大御所様」と言われる男爵・北畠治房に案内される。

 「60年の回顧」喜田貞吉著 喜田貞吉著作集14(S57)所収 平凡社刊

にその有様が語られている。

 北畠は、非再建論者をさんざん罵った後、喜田の筆法の鋭さを誉め、自ら法隆寺の堂塔を案内する。

 「『俺がお客様を案内するから、お前達は下がって休んでいるがよい。』と、案内者を追い出してご説明を承る。御自身須弥檀の上に登って、(金堂釈迦三尊を)ステッキで叩いてみて、『どうだこの音が推古式だが、お前にはわかるか』と言われる。ご説明はともかく、生まれて始めて内陣へ足を容れたと言うよりも、かつて古仏像など注意して見たこともない自分にとっては、お陰でゆっくりあらゆるものを観察できたのが嬉しかった。・・・・・・・・『これ小尼!俺がお客様を案内するから、お前は(中宮寺)曼陀羅を出したら下がってよろしい』と、どこまででもこの調子で、男爵はまるで法隆寺界隈の大御所様だ。」

 いくら大御所様と言っても、国宝をステッキでたたくなど、呆れるばかり。

 当時は、ほんとに誰も拝観、観光などに訪れる人も無い、静かな法隆寺であったことは、明治40年前後法隆寺を訪れた、上野直昭の随筆からも覗える。
 上野直昭は、東京芸大学長まで務めた美術史学者。

「法隆寺を想う」上野直昭(S35)大和の古文化 近畿日本叢書第一冊所収

「邂逅」上野直昭(S44)岩波書店刊  にも、所収されている。

 当時を偲び次のように記している

 「佐伯さん(法隆寺住職)もまだ若かったに相違ないが、大学を出たての私から見ると、己に一かどの老僧に見えた。そのとき佐伯さんは自ら金堂へ案内してくれて、暫らく話した後、ゆっくり御覧なさいと言って去っていった。番人とてもあるか無いかのやうな、見物人などは殆んど独りもない閑散な内に、私は只一人・・・・・・・・私は其日金堂の中に終日動きまわっていたと思ふ。弁当も此所で開き一人外陣に坐り込んでたべた。あの静けさは今日からは想像できないであろう。」

 いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも (鹿鳴集)

 会津八一が、この歌を詠んだのも、ちょうど同じ頃、明治41年のことである。
 「夢殿に近き『かせや』といへる宿屋にやどりて、夜中村内を散歩して聞きしものなり。」と自註鹿鳴集に記している。
 当時の、斑鳩の里の夜は、機織の音がはっきりと聞こえてくるほどに田舎情緒あふれる静かな田園の地であった。

 「いかるがの さとのをとめ」
 ちょっと気になるが、はて、どんな乙女だったのだろうか?
 実は、この乙女、法隆寺前の旅館「大黒屋」の娘〈お道さん〉のことで、機織の音はその筬の音であったようだ。

 この〈お道さん〉、高浜虚子の小説「斑鳩物語」(明治40年発表)に登場する。
 小説は、このような書き出しではじまる。

 「法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まっている。そのなかの一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走って出たのは十七八の娘である。」

 この十七八の娘が〈お道さん〉のこと。
 そして、この「斑鳩物語」の最後は、

 「ふと下で鳴る十二時の時計の音が耳に入ったとき気をつけて聞いてみたら、沈んだ(筬の音)方のはもう止んでいたが、お道さんの筬の音はまだ冴え々々と響いてゐた。」

 というフレーズで終わる。

 「斑鳩物語」高浜虚子著(S20)養徳社刊

 会津八一も、先の自註鹿鳴集で、

 「高浜虚子君が『斑鳩物語』の中に、同じ機の音を點出されしは、この前年なりしが如し。しかるに、この後久しからずして、この機の筬の音は再びこの里には聞こえずなりといふ。」

 と語っている。

 「自註鹿鳴集」会津八一著(S40)中央公論美術出版刊

 この「大黒屋」旅館、法隆寺を訪れる多くの文人、研究者の宿として親しまれた。
 志賀直哉、和辻哲郎、堀辰雄らも、ここに逗留している。
 いまも、元の建物のとなりで、立派に営業を続けている。

 先人の残した、法隆寺の思い出話の、明治40年前後の古きページを、少しばかり紐解いてみた。
 静かな良き時代の法隆寺に身をおいて、ゆったりと心静かに古寺古佛を鑑賞する気分に、少しばかりは浸れたであろうか?

 この頃の法隆寺を偲ぶことが出来る写真集がある。

 「写真 今世紀の法隆寺〜小川一真から入江泰吉まで〜」(S60)小学館刊

 正岡子規が休んだ、鏡池前の茶店や、当時の五重塔塔本塑像の写真も見ることが出来る。
 明治期の法隆寺の有様を掲載写真から偲ぶと、やはり随分と荒れていて、寺の維持に苦難の時期であったことは、想像に難くない。

 ここで紹介した、法隆寺の思い出話、文人のエピソードなどは、直木孝次郎の3冊の法隆寺随筆に詳しく記されている。

 「私の法隆寺」直木孝次郎著(S54)塙書房刊
 「法隆寺の里」直木孝次郎著(S59)旺文社文庫
 「新編 私の法隆寺」直木孝次郎著(H5)塙新書

 それぞれ、肩のこらない法隆寺随筆、古代史学者の豊かな見識と南都法隆寺への愛着・愛情にあふれた本。是非、一読をお薦め。

   

      

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