埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十三回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

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【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




2.ウォーナー伝説をめぐって

「ラングトン・ウォーナー」

ラングトン・ウォーナー
この名前は、皆さんよくご存じのことだろう。
また、こんな話も耳にされたことがあるだろう。

京都や奈良、そして鎌倉などの古都が、アメリカの爆撃に遭わなかったのは、
「ラングトン・ウォーナー博士のお蔭」
によるものだ。

このような美談ストーリーだ。

・ウォーナー博士は、アメリカ政府や軍に、日本の古都や文化財の歴史的重要性・貴重さについて訴え、これ等の地の爆撃や空襲を避けるように働きかけた。

・そのため、「ウォーナーリスト」と云われる、日本の文化財リストを作成した。

・その要請が容れられて、京都や奈良は爆撃から免れることになった。

・ウォーナー博士のこの働きかけがなかったならば、奈良や京都の町は、他の都市と同じようにアメリカの空襲に遭い、多くの古建築や仏像などの文化財は灰燼に帰したに違いない。

・ウォーナー博士は、「奈良や京都の文化財を救った、日本美術の恩人」なのだ。

これが、「ウォーナー伝説(神話)」と呼ばれる物語だ。


このウォーナー伝説は、ちょっと奈良・京都や文化財に関心がある人々は、誰もが知っている当たり前の常識のように思う。
色々な本にも、この「ウォーナー伝説」の話は、採り上げられている。


例えば、立原正秋の小説 「春の鐘」(1978年) でも、主人公が、法隆寺でこのように語っている。

  「この法隆寺については一つの感動的な話がある。
いや法隆寺だけでなく奈良,京都, 鎌倉がその恩恵を受けているわけだが、あの大きな戦争で日本の大都市が空襲を 受けたのに、奈良や京都の寺院は空襲を受けなかった。

というのは、当時、アメリカ のハーバード大学で東洋美術を研究していた人にウォーナーという博士がいた。

彼は東洋美術の学者達をあつめ、 日本の文化財のうち重要な個所には爆撃を加え ないよう除外すべきだ、と目録をつくった。
アメリカ軍はその目録をもとに日本の文化財に爆撃を加えなかった。
ウォーナー博士は、目録の筆頭にこの法隆寺をあげていた。
文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという考えがあったのだと思う。 」


  「春の鐘」(上・下) 立原正秋著 (S53) 新潮社刊 【635P】
 
    



私は、この「ウォーナー伝説」というものを、いつ知ったのだろうか?
自分の記憶をたどっても、よく覚えていない。
本で読んだのか、誰かから聞かされたのか、それすら定かではない。
大学生の頃(昭和40年代後半)には、もうよく知っていた。

この話を知って、私は、

「ウォーナーという人物も大変立派だが、その要請を受け入れて、奈良・京都の爆撃を回避して貴重な文化財を温存した、アメリカという国もまた、大変な国だな。」

と、すっかり感心した。

戦争なのだから、そんな文化財だの美術品だのに、さまでも気を配っておれるような状況ではない筈だ。
ウォーナーという人物は、立派な人物であったに違いない。
それにしてもアメリカという国は、なかなか大した国だ。
広島、長崎に原爆を投下するという残酷な事実もあったけれども、一方で、ウォーナーの建言を容れて、京都や奈良という古都とその文化財を戦火から守るという、度量を備えていたのだから。
持てる国、豊かな国の余裕というのかも知れないが、「文化、芸術」の価値をしっかり認める国なのだ。
日本の「軍部」なら、こうは出来なかったに違いない。

私は、このように思い、アメリカという国に、ある種の畏敬の念を少しばかり感じたのも事実であった。


ところがある時、
「このウォーナー伝説は事実ではない」
と書かれた本に出会った。

昭和57年(1982)に出された、「古寺辿歴」という本を読んだ時のこと。

著者の町田甲一氏は、本書の法隆寺の章で、「ウォーナー神話の検討」と題する項を設けて、

「ウォーナー神話は事実ではなく、善意から出た思い違い」

であると、述べていたのであった。

「古寺辿歴」 町田甲一著 (S57) 保育社刊 【581P】 3800円


この本には、このように書かれてあった。

「ウォーナー博士が奈良、京都をアメリカ空軍の爆撃から守ったという説が、決して悪質な作為によるデッチ上げではなく、全くの善意から生まれた思い違い、あるいは好意のあまりの独り善がり、独り呑み込み的な誤解に由来するものであったとしても、もしそれが事実に反することであるならば、史家はこれを訂しておかなければならない、と私は思う」


町田氏が語っている要旨は、このようなものだ。

戦後、ウォーナーが日本美術、文化の恩人であるという話を伝え、その遺徳を顕彰しようという運動の推進者であったのは、ウォーナー博士の親しい友人である矢代幸雄氏であった。
しかし、当のウォーナー博士は、これを強く否定し続けた。
それは、決して東洋的な謙譲からの否認ではなかったし、このことに疑問を持つ人もいた。

これを、指摘したのは、同志社大教授のオーティス・ケリー氏で、

・奈良は一度も爆撃対象にならなかった。

・京都は原爆の目標になったが、これを救ったのはウォーナー博士ではなく当時の陸軍長官・スティムソンの個人的決断によるものだ。

・ウォーナー博士自身も、恩人説に対して、終始、頑強に否認しており、迷惑がっていた。

ということを調査解明した。

この調査結果は、昭和50年(1975)「爆撃を免れた京都〜歴史への証言」と題して発表された。

ケリー教授の調査は、充分信ぜられるべきものであり、ウォーナー恩人説の神話化、神話演出は、矢代幸雄氏の善意と好意によるものとはいえ、情に流れすぎた「勇み足」によって出来上がってしまった、虚構の伝説である。


「これは、びっくり!」の話だった。

この話を読んで、これまでずっと常識だと思っていた「ウォーナー伝説」というものが、必ずしも事実ではないということを知らされた。

「こういう、美しい誤解、思い違いということも、あるのかもしれない」

そのように思った。

しかし、
「アメリカが、古都京都への爆撃を回避したのだ」
ということには変わりはないではないか。
そのために努力、決断した人物が、ウォーナー博士ではなく、スティムソン長官であったということだ。
そういう意味では、
「アメリカという国は、なかなか大した国だ」
という思いは、やはり変わることはなかった。




ところが、それから13年後の平成7年(1995)。

「アメリカが、古都・京都の爆撃を回避した」

という常識を、根本的にくつがえした本に遭遇した。

「京都に原爆を投下せよ〜ウォーナー伝説の真実」

という、吉田守男氏の著書であった。


読んでみると、そこに書かれた内容は、驚くべきものであった。

・アメリカが、古都の保存とか文化財保護の見地から、爆撃回避したという事実は全くない。

・ウォーナー博士は、ウォーナーリストと呼ばれる「文化財リスト」作成したが、これは、「日本の略奪文化財と、その弁償用の日本文化財」を明らかにするためのリストであった。

・奈良が、爆撃されなかったのは、爆撃対象となるほどの物が存在しなかったから。

・京都が、ほとんど空襲に遭わなかったのは、原爆投下の候補地であったためである。

・原爆候補地であったが故に、他の爆撃が回避されていたにすぎず、最終的に原爆投下地から外されたために、結果として温存されたこととなった。

このような内容が、詳細な調査結果をもとに、一冊の本に語られ、解明されていたのであった。


衝撃の内容であった。
しかし、詳細な調査解明に基づく労作で、間違いのない事実のようだ。

アメリカは、古都の保存とか文化財保護の見地などは無く、あくまでも戦略的な見地で爆撃対象地、爆撃スケジュールを決定していた、というのだ。
その結果が、たまたまこうなったに過ぎない、ということらしい。
云われてみれば、確かにアメリカ軍も大変な数の戦争犠牲者を出しながら、日本と戦っていたのだから、そんな文化的配慮のゆとりもないのは当然であろう。


この興味深い、
「ウォーナー伝説の誕生」
と、
「奈良・京都の爆撃がなぜなされなかったのか」
という話について、もう少し詳しく辿ってみることにしたい。



 


       

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