埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十回)

   第二十七話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その4>奈良の仏像写真家たちと、その先駆者

(5-10)


【目次】


はじめに

1.仏像写真の先駆者たち

・横山松三郎と古社寺・仏像写真
・仏像美術写真の始まり〜松崎晋二
・明治の写真家の最重鎮〜小川一眞
・仏像写真の先駆者たちに関する本

2.奈良の仏像写真家たち

(1)精華苑 工藤利三郎

・私の工藤精華についての思い出
・工藤精華・人物伝
・工藤精華についてふれた本

(2)飛鳥園 小川晴暘

・小川晴暘・人物伝
・その後の「飛鳥園」
・小川晴暘と飛鳥園についての本

(3)松岡 光夢

(4)入江泰吉

・入江泰吉・人物伝
・入江泰吉の写真集、著作

(5)佐保山 堯海

(6)鹿鳴荘 永野太造

(7)井上 博道




(2)飛鳥園 小川晴暘

近代の仏像写真の歴史を振り返る時、小川晴暘という写真家の登場は、最もセンセーショナルで、革命的出来事だったと云えるのだろう。

伐沙羅大将像
新薬師寺・伐沙羅大将像のアップ写真。

この写真が、仏像写真の世界にエポックを画した小川晴暘を象徴した写真であると思う。
私も、この写真を本で見て、伐沙羅大将の迫力と造形に魅せられ、新薬師寺を訪れたことを思い出す。
実は、本物の伐沙羅大将像を新薬師寺の本堂で拝した時、今だから本音を言うと「ガッカリしてしまった」というのが正直な感想だった。
写真の方が、圧倒的に魅力的、魅惑的だったのだ。

「写真の中の伐沙羅大将」に恋し、感動していたのであろう。

小川晴暘が、この写真を撮影したのは大正末年頃(1920〜1930頃)といわれている。
真っ暗なバックの中から、両眼をむき出して、かっと口を開いた顔が浮き出すように現われてくる、その表情の迫力は印象的だ。

これこそ、
「写真家が自身の美的感性で、自分の観た伐沙羅大将像を表現した、芸術写真だ」
と思う。

これまでの仏像写真は、記録性重視で、ありのままの姿を写し撮ることに重点が置かれたものであった。
画家でもあった小川晴暘が目指したのは
「写真で仏像を描く」
即ち写真で仏像の美を表現することにあった。
大変斬新で革命的なことであったと云える。

美術写真としての個性の主張があった小川一眞の仏像写真でさえ、まだまだ記録性重視の範疇の中にあって、美の感性を追求した小川晴暘の仏像写真の世界とは、隔絶したものを感じる。

小川晴暘の代表的作品といわれる仏像写真を見ると、この思いを新たにする。
広隆寺弥勒半跏像、中宮寺弥勒半跏像、三月堂日光・月光菩薩像、戒壇院四天王像などの写真である。

   


   

小川のトレードマークとも云える、「黒バック」の写真だ。

黒バックは、会津八一が貸してくれたギリシャ美術の写真集を参考にしたというが、彫刻を美しく浮かび上がらせる効果がある。
また、さまざまなテクニックを駆使し原版を修整するなどして、仏像の深遠さや美しさを引き出した。

これらの写真を見ていると、仏像が光を受けて暗い背景から浮かび上がるように写し出されている。
神秘的で神々しく、思わず吸い込まれていってしまいそうだ。
「光と影による、魅惑の立体表現」
と云っても良いかも知れない。

小川晴暘の仏像写真は、写真そのものが「美」の対象としての表現を持つものとなった。
「現実の仏像そのものを鑑賞する」
という世界のほかに、もうひとつ
「写真家の美的感性による仏像写真芸術を鑑賞する」
という新しい境地を開拓したと云える。

小川のこれらの抒情的で美しい仏像写真は、当時の人々の絶大なる支持と、好評を博した。

小川が仏像写真を撮り始めた頃は、ちょうど和辻哲郎の名著「古寺巡礼」が大正8年(1919)に出版されて間もない頃であった。
仏像の彫刻としての美しさが注目され始め、仏像鑑賞のための古寺巡礼が、人々の中にひろまっていった時期である。
この時代的風潮の中で、小川の「美しく見せる仏像写真」が、人々の心に訴えかけ、圧倒的な支持を獲得したのであろう。

和辻哲郎「古寺巡礼」の挿図写真も、大正13年(1924)の改版からは、小川晴暘の写真が使われるようになった。
これもまた小川の仏像写真の人気を高めることになったに違いない。
なお、現在の「古寺巡礼」の挿図写真は、昭和30年代から、入江泰吉の写真が使われている。

 
小川晴暘の写真が載せられた「古寺巡礼」旧版

安藤更生は、小川晴暘の仏像写真について、このように評している。
安藤は、飛鳥園・小川晴暘発刊の仏教美術研究誌「東洋美術」の編集担当をするなど、小川と大変近しく仕事をした人だけに、そのコメントはまことに興味深い。

「古美術写真が、写真として鑑賞できるようになったのは、小川晴暘に始る。・・・・・
その時分はギリシア・ロオマの彫刻写真と云えば、黒バックが多かった。・・・・
安藤更生
ギリシャに負けない奈良彫刻を、私はこの黒バックの上に置き直してやろうと思いついた。私は小川さんに黒バック使うことを熱心に説いた。
最初小川さんは余り賛成でなく『白も黒も物に依りますよ』と笑っていたが、そして今から考へると小川さんの方が正しいのだが、何でもかんでも黒バックで説得した。・・・・・・・
これが飛鳥園写真の特色たる黒バックの由来記である。

この試みは成功した。旧式な乾燥無味な標本写真ばかり見せられていた人達は、はじめて黒バックで自国の彫刻が世界のレベルを抜いている事に気がついた。
小川晴暘の写真は甘さのある、味わいのこまやかな作品である。
実物を見ても気のつかないような美しさを、彼のレンズは巧みにキャッチして鑑賞家の眼に投げつけた。・・・・・・・・


小川晴暘の出現によって、古美術写真界は面目を一新した。 中宮寺・広隆寺のミロク、新薬師寺のバセツラ(もとメキラと呼んだ)は、飛ぶように歓迎された。・・・・・
新薬師寺のバセツラ大将の左横顔は、まつ暗なバックから両眼をむき出して、カッと口を開いた表情が印象的で、有名な写真だが、小川さんの話によると、怪我の功名で実は露出不足の原板に手を入れたらああ云う面白い効果になったのである。・・・・・

彼の作品の照明は、大同石仏を除いて殆ど全部、人工光線に頼っていない。
これは閃光電球などといふ便利なもののない時代で、堂内ではマグネシウムは焚けず、電線引込みの許可などは思いも寄らない。
せいぜい鏡の反射射位のもので、そういう制約の下であれだけの仕事をしたのだから偉いものである。」


また、当時、小川晴暘の仏像写真が、どれほどに支持され、仏教美術の研究者や愛好者に影響を与えていたのかを伺える、面白い文章が残されている。
先に紹介した、高田十郎著「奈良百題」に採り上げられている。
「日本美術史の発生地」と題する小文で、小川晴暘の仏像写真の人気ぶりなどについて、少々皮肉交じりに書かれた文章だ。

その一節を紹介すると、

「『日本美術史の組織は、奈良の飛鳥園主人の、種板修整の鉛筆の先で左右される。』
という諺が、今の学会の一部にある。
東大寺大仏殿屋根上に坐す小川晴暘 
写真ほど正直なものはない。しかし同時に又、写真ほどその撮り方によって感じの異なるものもない。・・・・・・
極端に言うなら、写真師の好み次第で、どんな感じの物でも作り出せるのが写真である。」

「さて、飛鳥園の写真の特徴は、常にそれが画になって現れることである。
根が画人だからでもあろう。レンズの向け方も修正の仕方も、全て画人の態度である。・・・
けだし飛鳥園の頭の中には、かねて美術史上の様式的年代組織が一つ出来ている。・・・・
飛鳥園主人にニラまれたある年代の遺物は、必ず最もハッキリとその様式的時代特質を具えた写真となって、資料を研究者・鑑賞者に提供する。
いうまでもなく、それは飛鳥園主人の頭をとおしての時代的特質である。」

新薬師寺・香薬師像
「大づかみに言うと、いま日本美術史として一般的に合点されているそれは、こうして奈良の博物館と飛鳥園と日吉館との、三つ巴の渦から湧いて出てきたもの。
つめて言えば、飛鳥園の写真から生まれて出たものである。
本当のことを言うと、今日斯界の中堅たる某博士も某教授も、皆この手で飛鳥園の写真に教育されてきた者だ、と説く者がある。・・・・・・・・
併しこの関係は、飛鳥園式写真と非飛鳥園式写真との間にもあてはまる。

もし今、飛鳥園式以外の写真によって再検討を試みるものがあるとしたなら、日本美術史の組織は、今現にみられる所とは、幾分異なったものになってくるかもしれない。」

この文章は、昭和13年(1938)に書かれたものだ。
「それほど、飛鳥園の写真は、もてはやされたのか」
と、今更ながらに、当時の飛鳥園の仏像写真の人気と影響力の大きさを伺うことができる文章だ。

また、飛鳥園・小川晴暘の当時の発信力の大きさを、多分に皮肉った文章ではあるが、一方で、小川晴暘の仏像写真の魅力・特徴と、その主観性のなせる問題点を、的確に厳しく言い当てているというように感じる。



 


       

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