埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十五回)

   第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア




【目次】


はじめに

1.奈良県の始まりを辿って

2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平

(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々

3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本

・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本

4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖

(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤

5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本

おわりに




4. 税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖


「税所コレクション」といわれることがあるそうだ。
現在、そのようなコレクションが残されているわけではないし、過去にコレクションが公開されたという話も無い。
そのように語られるのは、税所篤が、明治前半期に飛びぬけた好古コレクターであったことを、物語るものであろう。
税所篤(さいしょあつし)は、先に記したように明治9年、堺県が奈良県を吸収した時の堺県令であり、明治20年再設置された新生奈良県の初代奈良県知事であった人物。


(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判

税所篤が、当時のダントツの好古コレクターであったことを示す資料を紹介しよう。
明治21年、当時の美術行政を策定してきた九鬼隆一は、大規模な宝物調査を実施する。
この調査では、寺社所蔵品のほか個人コレクションの目録作成も行なわれた。
このとき作成された宝物目録が、東京国立博物館に残されている。
この目録によると、奈良県の個人コレクターのランキングは次のとおりとなっている。



このランキング表を見ると、奈良県において税所篤が如何に飛びぬけたコレクターであったかどうかが、一目瞭然だ。
第2位以下の顔ぶれを見ると、古くからの老舗や名士、寺社要職の家系ばかり。

税所篤

ご存知のとおり税所篤は、幼少を困窮のなかで育った薩摩の下級武士であったから、維新政府の高官になって権勢を得てから、古美術蒐集の趣味が身についたに違いない。
そこから、あっという間に逸品を精力的に蒐集したのだ。
税所所蔵の33件の優等・次優等品は、そのすべてが絵画だそうだ。

「信貴釈迦像、雪舟の維摩、夏珪の山水、李迪の牧童、伝住友慶恩の地蔵堂縁起、兆殿司の観音、詫磨栄賀の不動、周文の観音」

等々を所蔵しており、他の寺院や収蔵家を寄せ付けない名品揃いであったといわれる。

正木直彦は、明治前半期の有数のコレクターについて

「維新直後に美術愛好家の一団があった。
東京では町田久成、青木信寅、井上馨、田中光顕、小室信夫、大江卓、柏木貨一郎、益田翁(益田鈍翁)等々であり、京阪では鵜飼徹定、藤田傳三郎、税所篤満等であり、幕末から引きつづいた先覚者有識家であって、維新後の為體をみては勿体無くて耐らんというふ人々である。
廃仏毀釈の大嵐で擯出された仏像仏画経巻仏具の類のソコイラに捨てられあるものを拾い集めた。」
(益田鈍翁の古美術保護)

と記しており、
税所篤の名が、関西の名だたるコレクターの一人として登場している。

しかしながら、税所篤の蒐集スタンスについては、激しい毀誉褒貶がつきまとっている。
批判的で、これを指弾する声が圧倒的なのである。
少しばかり、紹介してみよう。

「内山永久寺の廃寺と共に、権勢家であった税所篤が寺宝を収奪したのであった。」(森本和男「文化財の社会史」)

「税所篤も、明治初年の混乱期にしばしば顔を見せる、いわくのある人物であった。」(由水常雄「廃仏毀釈の行方」)

「県令に任ぜられた税所篤は、当時には珍しい好古の癖のあった人だったので、自ら管内の遺跡なり遺物に着目することになって、一部で古墳の発掘等を行なう風潮を生じたし・・・・・・・・
然し、右の税所県令の発掘は、単に遺物の蒐集を目的として、自己の好古癖を満足せしめるにあり、引いて権勢を利用して無理を敢えてして顧みなかった為に、一方には遺跡の破壊となり、他方では地方に保存せられた資料を散逸する悪い結果のみを残して・・・・・」
(梅原末治「大阪府史跡名勝天然記念物調査報告第3輯」)

なかなか、手厳しい指摘で、「悪名高い」といわれてしまうのも、無理からんことかと感じてしまう。

税所の蒐集姿勢を糾弾する記事の決定打、というべきものがある。

昭和2年(1927)、文芸春秋7月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」と題したもので、芥川龍之介、菊池寛も加わっている。
超有名人ぞろいだ。
尾佐竹は明治文化社会史研究家で当時大審院判事の要職にあった人物。

一部をそのまま紹介しよう。

柳田:○○○事件ですか。それから一番ひどいのは○○子爵ですね?

尾佐竹:堺の県令をして居る時分に奈良の大抵の社寺の古物などを持って帰るのですね。
あれなんか県令の勢で強奪したり又はすり替へるのですからね。

芥川:さういふのは裁判沙汰にならなかったのですか。

尾佐竹:明治初年の県令といふものは大名の後継者の積もりで素破らしいものであり、司法権も警察権も有ってゐるといふ大したものでしたからね。
そして民間は奴隷根性が抜けぬ時ですからね。

柳田:奈良の古物といふものは、あの時分によほど多く無くなったといひますね。

尾佐竹:県令が御覧になるからといって取り寄せて返さぬ、又は、刀の中味などをすり替へて返す。
それはまだいいとして、属官が旅費を貰って出張して、古墳を堂々と発掘して、その地方の豪家に命令して泊まって、そして貴重品は県令様のポケットに納まるといふのですからね。
それで居て旧幕時代の奉行代官から見ると善政を施してゐるといふのですよ。
奉行代官から見るとそれでもまだズッと清廉潔白なんです、まるでレベルが違ひますからね。

芥川:さうですかね嫌になっちゃふね。

尾佐竹:まだいろんな事がありますね。けれども余り言ふといけないから。


この○○子爵というのが、税所篤のことであろう事は明らか。
いくら、古い明治時代のことと云ってもここまでいってしまってよいのだろうか、名誉毀損に当たるのではないのだろうか、と心配になるほどの生々しい糾弾の座談会だ。


こうして税所篤の好古蒐集の姿勢をたどってみると、やはり相当強引なものであったのだろうと、思わざるを得ない。
税所篤という人物は、県令という絶対的な権力、権勢でもって、自分自身の好古蒐集欲を満たして言ったのだろう。
「欲しくなったら何としてでも欲しくなる」
「どうしても手に入れたくなると、手段を選ばない」
それが、マニアと呼ばれるコレクター心理というものだ。
税所もまた、こうした世界に溺れていったのであろうか。
それも、第一級の強引さであり、時代がそれを許したということなのであろう。


 


       

inserted by FC2 system