埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十二回)

   第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア




【目次】


はじめに

1.奈良県の始まりを辿って

2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平

(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々

3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本

・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本

4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖

(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤

5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本

おわりに




興福寺の貴重な仏像や経典が、焼かれたり、売り払われた有様を、もう少し振り返ってみたい。
興福寺にも校倉があり、そこから仏像仏画経巻を取り出さして倉前に山積み、欲しいものがあれば勝手次第、持って行かぬものは焼いてしまった、と伝えられる。
県令、四條隆平の指示によるという。
惨状を見かねた薬師寺の一老僧が、火中から一体だけ取り出して持ち帰ったが、これが貴重な天平仏であったという話もある。

当時、唐招提寺事務長であった北川智海の話によると、

「当時焼き棄てられた残部の書籍は、小僧どもにより綴糸を切られて、反古紙とせられ、奈良塗りの漆器の包紙にせられたり、茶箱の張り紙にせられたりしました。
明治20年ごろまで、奈良塗りの漆器の包紙は、皆この反古紙でありました。20銭30銭の茶盆が、天平の写経に包まれて、旅客の手に渡されたことでありましょう」(明治維新神仏分離史料)

という、有様であった。

天平の写経紙は、今では一紙100万円以上するといわれる。
金銀をかすり取るため金泥で書いた経典が焼かれたり、千体仏が束ねて薪とされた、とも伝えられている。
貴重な文化遺産が、こともなげに処分されたのであった。

明治20年頃の興福寺中金堂内陣

 
.      興福寺の破損仏               興福寺東金堂破損仏〜十大弟子・八部衆〜
                       (明治期古写真)


こうした状況の中で、興福寺から流出した仏像も数多い。
有名処を挙げると、このようなところだ。


人気NO.1の阿修羅像とセットで有名な脱乾漆十大弟子像は、現在、興福寺には6体しか残されていない。
4体の行方は、表のとおりとなっている。
破損が少なかった大蔵喜七郎旧蔵像は、関東大震災で焼失し、残された3体は大きく破損した残欠や心木。

  
十大弟子(個人蔵)  十大弟子頭部(大阪市立美術館蔵)  十大弟子心木(東京芸大蔵)

 
脱乾漆梵天・帝釈天像(サンフランシスコアジア美術館蔵) 快慶作弥勒菩薩像(ボストン美術館蔵)

 
増長天・多門天像(奈良博蔵)

        
持国天像(ミホミュージアム蔵)               興福寺千体仏像


定慶作帝釈天像(根津美術館蔵)               文殊菩薩及侍者像(東博蔵)


最も有名な仏像は、今はボストン美術館所蔵となっている、快慶作の弥勒菩薩立像であろう。
何度か、ボストン美術館展などで里帰りして、人気を博した。
快慶作の仏像では、現存する最古の作であり、若き快慶の作風を偲ぶことができる貴重な作品だ。
明治39年、興福寺から岡倉天心が所有することとなるが、天心没後、ボストン美術館が遺品を購入したものである。

興福寺が基本金調達のため、破損仏その他を庫一つ払い下げたときに流出した名品も多い。

益田鈍翁
奈良の古美術商、玉井久次郎によれば
日露戦争(明治37〜38年)直後のことで、当時の大コレクター、三井の益田鈍翁が77点を3万5千円で一手に引き受け、その後転売された。(奈良古物と益田翁)
という。
興福寺貫主・多川俊映は、この払い下げについて、自著「奈良興福寺」でこのように語っている。

「明治時代後期、興福寺はその維持ならびに徒弟教育基金設置のために多額の寄付を募り、その寄進者に著しく破損した仏像など、数十点を一括譲与したが、・・・・・・・・・
寄進者の破損仏譲与については、明治37年(1904)2月18日、時の管主・大西良慶と信徒総代・中村雅真との間で話し合われたのが最初であった。
翌38年3月16日、奈良・東向南町の古美術商・玉井久次郎が、寄付を申し出る人(東京・益田英作)がいるので、至急山内で協議願い、関係官庁まで破損仏譲与許可申請の手続きをするよう申し入れてきた。
そこで同月20日に信徒会議を開催、この一件を内務大臣まで出願することが正式に決定された。・・・・・・・・・・
明治39年に入ると、益田英作はもとより、大阪・藤田伝三郎、東京・大倉喜八郎、横浜・原六郎といった古美術収集家または協力者が食指を動かし、破損仏一見のためあいついで来寺した。
そして、最終的に原六郎と益田英作とが本寺維持の趣旨に賛同したので、寺としてもいずれにすべきか決めかね、入札によって決せられることになった。
明治39年6月23日に入札、開札の結果、当初から積極的に寄進の意を表していた益田英作に落札した。
価格は、寺が希望していた2万3千円だった。
この益田英作とは、鈍翁・益田孝の末弟で、鈍翁の古美術蒐集のよき協力者だった。」


上記表にあげた流出仏のほとんどが、この時、払い下げられた仏像だ、
北円堂伝来といわれる四天王像のうちの一体(広目天)と定慶作・帝釈天と対いとなる梵天像は、現在も興福寺に残されている。

明治39年益田鈍翁に譲与された仏像写真

徹底的に破壊された興福寺も、廃仏毀釈の嵐がおさまっていくにつれて、保存や復興が考慮されるようになる。
明治13年(1880)には、旧興福寺関係者連署による再興願いが内務省に出され、翌年正式に認可が下り、ようやく復興が実現する。
しかし、境内地については、既に春日野と共に奈良公園になってしまっており、戻されることは叶わなかった。



 


       

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