埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十一回)

   第二十五話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その2>二人の県令、
四条隆平・税所篤〜廃仏知事と好古マニア




【目次】


はじめに

1.奈良県の始まりを辿って

2.奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平

(1)神仏分離と廃仏毀釈
(2)興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策
(3)廃仏毀釈で消えた奈良の寺々

3.奈良県の誕生、県令・四条隆平、廃仏毀釈についての本

・奈良県誕生の歴史についての本
・県令・四条隆平、興福寺の廃仏毀釈についての本
・明治の神仏分離・廃仏毀釈、奈良の寺々の有様についての本

4.税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖

(1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判
(2)大山古墳〜仁徳天皇陵〜の石室発掘疑惑
(3)小説・ミステリーに登場する税所篤

5.税所コレクションと仁徳陵発掘疑惑についての本

おわりに




2. 奈良の廃仏毀釈と県令・四条隆平


(1)神仏分離と廃仏毀釈


明治元年〜慶応4年〜(1868)3月、維新政府は「神仏分離令」を発布する。
王政復古と祭政一致を中心綱領とする体制を創ることをめざして、神仏分離令を発したのだった。
神仏分離令は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として、廃仏毀釈運動とも呼ばれる寺院仏閣の大破壊活動が展開されることになる。

ここ奈良の地においても、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。
数多くの寺々が廃仏毀釈の被害を蒙ることになる。
興福寺、内山永久寺、多武峯寺(談山神社)、大御輪寺、金峯山寺、眉間寺。
なかでもダメージが大きかったのはこれらの寺々であった。
仏堂が取り壊され廃寺となってしまったり、貴重な仏像、仏画が焼き払われたり、散逸してしまったりした。


天平写経(金光明最勝王経・徳川美術館蔵)
「今は一巻数万円に及ぶ天平写経が、明治初年には奈良に在っては荒縄を以って数十巻ずつ束ねられ古物商の店頭に一束5円の札が付いていた」(辻善之助著「日本文化史」1948〜53)

という、奈良の古老の実見談も伝えられている。

廃仏毀釈は、何故にこのような嵐のような動きになったのだろうか?
長きに亘って仏教勢力に押さえつけられ続けてきた神社側勢力の、仏寺仏僧に対する怨念には根深いものがあった。
その鬱積を晴らすかのように各地で寺院や貴重な仏像、仏画、経典などの猛烈な破壊活動に発展していったのだった。
かけて加えて、新政府の開花主義による文明開化の革新的風潮が悪乗りして、「古きもの」を全て軽視、排除する旧物廃棄の価値観に拍車をかけた。
社会のうねりのようなエネルギーとなって、多くの古い物が打ち捨てられていった。
これに追い討ちをかけたのが、明治4年に政府から発せられた、「社寺領上知令」。
藩から与えられていた社寺の領地を、廃藩置県にともなって政府が没収したのだが、多くの領地を有していた寺院にとっては、息の根を止められるほどの大ダメージとなった。
寺そのものや、寺宝などの維持管理が叶わなくなってしまったケースも数多い。

ここからは、四条県令の強引な迄もの廃仏政策と、興福寺をはじめとする代表的寺院の廃仏毀釈の有様について辿っていきたい。


(2) 興福寺の荒廃と、四条県令の廃仏政策

興福寺における廃仏毀釈は、誠に凄まじいものであった。
「ここまでやるか」と、ふーっとため息が出る。
悲惨といっても良いのかもしれない。
南都六大寺の雄と云って良いほどの興福寺が、あっという間に廃寺になってしまう途をたどった。

 
興福寺〜猿沢池から望む〜                     春日大社

「神仏分離令」が発せられた明治元年(1868)、興福寺から僧侶が消えた。
僧侶が皆、春日大社の神官になったのであった。
興福寺は、春日大社との神仏複合体、一体の関係にあった。
このことが大きな要因になったのであろう。
興福寺では、一乗院、大乗院の両門跡(松園隆温、水谷川忠起)以下、院家・学侶から仕丁に至るまで、相次いで復飾願いを出し還俗、あらためて「新宮司」とよばれる春日社の神官に任ぜられた。

興福寺の管理は、西大寺と唐招提寺に任されることになる。
僧侶のいなくなった興福寺は、またたく間に荒れ果ててしまった。
沢山の塔頭や寺院の建物は見る影もなくなり、多くの仏像、仏具が処分され、つかわれている金銀箔を目当てに、経巻類が焼き払われた。

明治4年11月、統一奈良県が発足、四条隆平が初代県令に就任する。
四条は、弱冠30歳、就任後たちまちに、廃仏政策を強引に強行する。
四条県令は、その下の参事・津杖猪太郎とともに、いわゆる「開化政策」を強行、これが寺院の解体、文化財流出に拍車をかける。
そして興福寺は、四条県令の廃仏政策の最大のターゲットになった。

県令・四条隆平の人物像を追ってみたい。

四条は、若気の至りなのかどうかはわからないが、一風変わった人物であったようだ。
当時としては珍しい洋食をすすめたり、官舎から県庁の出勤のとき、大鹿に馬車を引かせたりした。
古都奈良が、にわかに「文明開化」かぶれになった様で、県令の政策は「新しいものを取り入れ、古いものを捨てる」ものであった。
奈良の生き字引といわれた郷土史家・水木要太郎は、このように語っている。

「四条隆平が奈良県令のとき、興福寺等が禍を被りました。権参事・津杖猪太郎と云う者が、今で言えば至極ハイカラで、県令を助けて破壊主義を実行したということであります」


四条県令の新奇、珍奇なエピソードを紹介してみよう。

「去年奈良の新県庁創立ありしより府庁中椅子 高宗(つくえ)を設け 官吏は皆散髪 脱刀 洋服靴のまま昇降したり・・・・・・・・・」
「奈良市内にはもとは人力車は一台もなかったが、今日は数十台あり・・・・・・・・・・・」

当時の奈良の「日記新聞」は、このように伝えている。
突然の洋装、断髪といった文明開化の動きへの戸惑いの大きさが伺われる。

四条県令は、古来春日の神鹿とされていた「奈良の鹿」を、有害獣だとして、射殺をすすめさせる。
文明開化、平民教化の名の下に因習を覚まさせるのだと、鹿鍋をやらせたり、柵をめぐらせた鹿園に閉じ込めさせたという。
なんと鹿の頭数は、たったの38頭まで激減してしまった、と記録に残されている。
加えて、牛肉を好んで食べた四条県令は、畜産振興のつもりであったのか、若草山に但馬・丹後牛や乳牛80頭を放牧させたり、茶山(奈良公園の一部)に綿羊100頭を飼ったりするが、いずれも大失敗に終わった。

 
奈良の鹿                     若草山

一方、尊皇精神には著しいものがあり、他府県に先駆け、天皇の御真影の下賜を願い出て、興福寺南大門あとの壇上に遥拝所を設けて人々に拝礼させた。

四条県令は、いかがかと思われる行過ぎ、奇行、奇抜なアイデアの強行が何かと目立った人物であった。
奈良県令在任は、たった一年半であったが、その間ふるわれた猛威は、奈良の人々にとっては大変な災難、迷惑といった有様であったようだ。


興福寺の話に戻ろう。

四条県令の廃仏政策のターゲットとなった興福寺は、一山伽藍の破壊と撤廃が推し進められていく。
明治5年、県令は、興福寺に「旧殿建物残らず取り払いたく」との申し出を出させて、教部省から「一山総べて廃寺処分の上・・・・・」との返事を受ける。
興福寺の廃寺処分が決められたのだ。
四条県令が、とりわけ廃仏のターゲットに興福寺を選んだのは、奈良市街の中心地(現在の興福寺、奈良公園あたり)を、文明開化の象徴的な地として旧物排除、近代化のシンボル的なものにしたいという政治的意図が強くあったのかもしれない。

裁判所として使われていた旧興福寺一乗院
高い格式を誇った一乗院は、明治4年に県に没収され宸殿は奈良裁判所に使用されていた。
大乗院は廃絶・撤去され、その広大な跡地は、現在の奈良ホテルとなっている。
そのほか金堂は警察署となり、大喜院は450両で買収、食堂は破壊されその古材は学校の建築に使われた。
明治初年までは、興福寺には40を超える堂塔が立ち並んでいたが、
その後、多くは破壊撤去され、結局のところ残ったのは、五重・三重の両塔、北円・南円の二堂、東金堂、寺務院、大湯屋ばかりになってしまった。
余談であるが、奈良地方裁判所として長く使用されていた一乗院宸殿は、昭和39年(1964)に唐招提寺に移築され、御影堂となっている。
国宝・鑑真和上像と東山魁夷の障壁画で有名な、あの御影堂で、今も興福寺・一乗院の往時の格式の高さを偲ぶことができる。


「秋風や 囲いもなしに 興福寺」

明治28年、正岡子規が詠んだ句である。

たしかに、興福寺近辺を歩くと、どこから興福寺が始まるのか、奈良公園との境がどこにあるのか良くわからない。
普通の寺院には必ずある筈の、伽藍を囲む回廊や築地塀などが全く無いからだ。
興福寺にも、当時は当然に土塀があった。
四条県令は、興福寺の土塀は通行の妨げになる「無用の長物」とみなし、取り壊してしまった。
土塀のひさしは一間あまりも有って雨雪をしのぐのに好都合であったが、その名物の土塀が取り壊されることを奈良の町民は惜しんだという。

 
明治中期の興福寺伽藍   明治中期の興福寺(公園化の為植樹されている)

かろうじて、県令の命令にもかかわらず、生き残ることが出来たのは、奈良のシンボルともいえる、雄々しくそびえる五重塔だ。
五重塔は、四条県令の命令で売り払われ、頂上に綱をかけられ万力で引き倒されることになるが、堅牢であった為びくともせず、どうにか持ちこたえた。
五重塔の売値は、5円とも、15円・25円とも伝えられるが、いずれにせよ、ただ同然の捨て値であった。

この五重塔の事件のいきさつについては、昭和5年の奈良新聞に、

「金5両也 興福寺の五重塔  買取り乍ら処分に悩んだ 買主吉川師の昔話」

という、大見出しの記事が載せられている。

吉川師は、当時、唐招提寺の末寺竹林院の住職、吉川元暢。
記事の要約を紹介すると、次のとおりだ。

「丁度私が15歳の時でした。師の法華院(唐招提寺塔頭)の霊隋上人が五重塔が売りに出されることを聞かれた。興福寺の大乗院と一乗院が廃寺になったので、町民の手へ売り払うことになった、という。
師は余りのことなので自分で5両出して買取られたが、その後奉行所(県庁のことであろう)から『早く取り払え』とたびたび催促される。
といってあれだけのものを取り壊せませんでした。取り壊すには莫大な費用がかかるからです。
それ故、つい一日々々と、日が経過しておりますので、奉行所から
『お前のほうで取り壊せなければアノ塔は金物ばかりを売っても金15両なら何人でも買うから、一層の事15両で当方が買取り火をつけて焼けば金物だけは残るではないか』
と、トウトウ奉行所の命令で15両で買取られて仕舞ったのです。」

 
興福寺五重塔      興福寺五重塔の事件のいきさつを伝える新聞記事


金物を取るために、いざ火をつけようとすると、地元の民家から「風向きによっては類焼の恐れがある」と抗議が来て、結局うやむやのうちに日が経っていった。


そのうちに、「廃仏知事」と呼ばれた四条県令が、明治6年11月転任となり、いつか塔の取り壊しは沙汰止みになった、という。
まさに「四条県令の時代」は、興福寺に限らず、奈良の寺々には受難の時であった。


 


       

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