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橋本凝胤 |
(北畠冶房は)「歴史メーカーですよ。いろんな事自分でつけ
て、自分の家系を作ることもした。あれ平岡という人ですが、北畠ってなもの(では)ありません」
といい、「北畠親房とは無関係ですか」と念を押すと、
「あー何も関係ない。中宮寺の執事をやってた」
といっておられる。北畠男爵が存命のころ法隆寺で修行した凝胤師の話なので、信憑性がある。
名門北畠とは無関係とする説のほうがよさそうに思える。
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直木孝次郎 |
官界を引退して法隆寺村に住んでからの彼は、先に紹介した
喜田貞吉の回想記にみるように、傲岸不遜の行いが多く、法螺吹きでハッタリの頑固おやじのように見えるが、単なる法螺吹きやハッタリでは、検事長や控訴院
長がつとまるはずがない。
幕末には天誅組の大和挙兵や、天狗党の乱に加わって白羽のもとをくぐり、明治政府にあって日本近代化の先頭に立って働いた北畠にとって、大和の農民がど
こでもがそうであるように、法隆寺村はあまりに穏やかで、旧態依然で、さらに言えば官尊民卑でありすぎた。
この静かすぎる村が、晩年の北畠を作りあげるのに、あずかって力があったのではないかと私には思えるのである。(新編私の法隆寺)