埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百三十二回)

   第二十四話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
 
  〈その1〉  法隆寺の大御所 北畠治房



【目次】


はじめに

1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

2.喜田貞吉、薄田泣菫の描いた北畠冶房

3.北畠冶房の生い立ち、略伝

4.近代法隆寺と北畠冶房

(1)法隆寺宝物の皇室献納
(2)百万塔の売却
(3)若草伽藍址塔心礎の寺外流出と返還
(4)法隆寺二寺説のルーツ

5.北畠冶房について採り上げた本




  1. はじめに

 しばらく「仏像の素材とか技法」といったマニアックな話が続いて、疲れ気味という処。
 そこで、仏像一直線のテーマから外れて、ちょっと気楽な話やエピソードなどを採り上げてみたい。

 明治以降の奈良の古寺や文化、仏像などを巡る話をしばらく紹介してみようかと思う。
 最近は奈良の観光人気も急上昇中、今年は平城遷都1300年で大賑わい、また昨今の仏像ブームで若い女性達も奈良へ奈良へとくり出すようになった。
 今日、仏教美術の粋を集めた古都奈良といわれるまでを振り返ると、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初年以降、奈良の文化財の保護、啓蒙、研究など、古文化と共に生きた多くの人々がいたし、いろいろな出来事もあった。
 そんな人々や出来事のことを、思い起こし振り返ってみることにしたい。
 平城宮址の保存に尽くした棚田嘉十郎、仏像の美術写真への道を拓いた工藤精華、小川晴_、古寺古美術研究を志す人々の奈良の宿「日吉館」、仏像の修理や戦争疎開の話などなど・・・・・・

 奈良好きの方々には、きっと興味深い話であろう。
 しかし、奈良という処に住んだこともなく、造詣も深くない私が、どんなテーマで書くことが出来るのだろうか?
 少々不安というのが正直なところだが、私の興味のある事柄だけを、思いつくまま気儘に採り上げてみることにした。
 題名にも「思いつくまま」とつけさせてもらい、これからの気分で、思いつくままのテーマで続けさせてもらえればと思っている次第。

 奈良の古寺を訪れたときに、こんな話も思い出してもらえて、少しばかり「奈良めぐり」のお役に立てることが出来れば有難い限り。


1.法隆寺の大御所〜雷親爺〜

 北畠冶房という人物をご存知だろうか?
 歴史学者・喜田貞吉は、こんな思い出話を語っている。

 法隆寺の堂塔を案内してくださるといわれる。・・・・・・・
 御自身、須弥壇の上へ登って、ステッキで仏像を叩いてみて、
 「どうだ、この音が推古式だがお前にはわかるか」
という調子だ。・・・・・・・
 次には東院、次には中宮寺とそれぞれご案内を受ける。
 「これ小尼!俺がお客様を案内するから、お前は曼荼羅を出したら下がってよろしい」
 と、どこまでもこの調子で、男爵はまるで法隆寺界隈の大御所様だ。

 
法隆寺西院伽藍            法隆寺金堂釈迦三尊像

 この大御所様と呼ばれた人物が、「男爵・北畠冶房」。
 この文章は、明治38年12月、法隆寺再建非再建論争の再建論者の雄、喜田貞吉が、法隆寺を訪れたとき、その案内をしてくれた北畠冶房のエピソードを綴ったものである。

 いくら昔の明治時代のこととはいうものの、法隆寺金堂の飛鳥仏像をステッキで叩いたりというのは、我が物顔もやりすぎという感じであきれてしまうが、何事につけこのような傍若無人ぶりであったらしい。

 この北畠冶房という人物、近代法隆寺とりわけ明治時代の法隆寺の出来事やエピソードを振り返った本を読んでいると、必ずといっていいほど登場してくる。
 北畠は、法隆寺村の出身、幕末の「勤皇の志士」の生き残りで、明治維新後取り立てられて、明治24年には大阪控訴院長となり、その後、王政復古に偉大な勲功ありとして男爵を授かり、法隆寺村ではダントツの超出世頭であった。
 法隆寺村には似つかわしくない、武家屋敷風の大邸宅の居を構え、退官後は地元に戻ってきて、死ぬまで長らく法隆寺の信徒総代をつとめた。
 まさに「郷土の名士」そのものという経歴だ。
 北畠は、そんなことより「傲岸不遜の法隆寺の雷親父」としての名をとどろかせており、寺界隈はもちろんのこと、関係の学者の間でも、誰一人知らないものはないほどの名物男であった。
 
北畠治房                法隆寺傍の北畠治房邸    

 北畠冶房の「雷親父ぶり」を描写したフレーズを、いろいろな本からピックアップしてみると、こんな具合だ。

◆北畠は、書生やお手伝いさんに「殿様」と呼ばせていた。態度が横柄で気に入らないことがあると相手かまわず怒鳴りつけた。
地元の人は表向きはともかく、仲間内では「雷おやじ」といっていた。
北畠は、法隆寺の大壇越、つまり大旦那気取りであった。
遠方から客が来ると、「法隆寺に案内しよう」といって、境内を我が家のように振舞いながら説明してまわった。(大田信隆著「まほろばの僧・法隆寺佐伯定胤」)

◆法隆寺に閑居してから寺の大番頭をもって任じ、寺僧でさえ眼中におかなかったのだから傲岸不屈の親爺ぶりであったらしい。(釈瓢斎著「法隆寺の横顔」)

◆男爵の口の悪かったのは、逸話としてはあまりに有名過ぎる。
「お前」というのが翁の最上の呼称で、普通は誰彼なしに立ち会い_々「貴様は」「青二才が」「大馬鹿者奴が」という調子であった。(佐伯啓造「北畠冶房男逸話」)

こ んな話を聴くと、ただただ権威を振り回す、わがまま頑固親爺だったというだけのエピソードを持つ老人というように思ってしまう。
 しかし一方では、法隆寺の良き保護者として、あるいは法隆寺の文化財・歴史研究の局面においても、北畠冶房の名が折々登場してくる。
 たとえば、明治11年に法隆寺が皇室への宝物献納を行なうに至る際、その実現に向け、大いに関与活躍している。現在、四十八体仏と呼ばれる小金銅仏をはじめ、その大半が東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示されている、あの「法隆寺献納宝物」である。
 また、「法隆寺二寺説」を唱え、法隆寺再建非再建論争での、関野貞、足立康の主張した非再建二寺説のルーツとして、関心を集めたこともある。
 さらには、今は元の地に戻ってきているが、若草伽藍の巨大な塔心礎を、居宅に移しその後に寺外に売却した人物としても知られている。

 法隆寺の明治以降近代の出来事や歴史をたどっていく時、私には、この北畠冶房という人物を外しては語れないという気がするのである。
 傲岸不遜で鼻持ちならぬ厭な親爺ではあるが、法隆寺一筋の頑固一徹の親爺で憎めないところもあったのかも知れない。

 ここから、この「雷親爺の大御所様」について、もう少し詳しく語っていきたい。

 


       

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