*そもそも、飛鳥の昔から、法隆寺百済観音などに乾漆の盛り上げがおこなわれていて、木彫を乾漆で造型するという技法があった筈なのだから、脱乾漆像から木心乾漆像へと移行展開したと、すんなり考えてよいのだろうか?
*「木心乾漆像の乾漆部が薄くなり、内部の木心が独立して平安初期木彫が生まれたのではないかという説」も、「それはちょっと違うだろう」と思うが、全く否定できないような気もするがどうだろうか?
*平安前期には純粋木彫系と奈良様の乾漆系木彫が併行しておこなわれたのだから、木心乾漆技法は純粋木彫と関連はなく、別の展開をしたと考えるべきなのだろうか?
*寄木造りの技法は、木心乾漆像の寄木式技法と関係あるのだろうか、別のものだろうか?
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法隆寺 百済観音像 |
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飛鳥時代の法隆寺百済観音に木屎漆の盛り付けが見られ、広隆寺宝冠弥勒にも木屎盛り付けが推測されているなどの例もあるが、これは原初的な木造品の瑕欠を
補う式の延長線にあるものであり、木心乾漆の技法をこの使用法の発展形とは考えられないし、また中国像の影響とも考えられない。
*木心乾漆像の「捻木屎」の技法は、我国の脱乾漆像で発達した同技法との延長として引き継がれ、基底部は漆布層から木心に変わることにより、漆布層の分も加味された乾漆層としてより発達し、完成されたものと判断される。
*木心乾漆像の寄木式木心は後期には減少し、一木式が中後期に急増、晩期移行は一木式のみとなっていて、木彫化=一木化を裏付けている。
*流れとしては、寄木式から一木式へと動いており、二世紀半に及ぶ一木彫時代を超えて、定朝により完成されたといわれる寄木造漆箔像に直接影響を与えたとは考えにくい。
*唐招提寺千手観音像に見られるように寄木造りの技法は、巨像の必要工法として潜在的に存続したであろうことが推測され、寄木造りは巨像制作の系譜から、より合理化されたものとして誕生したと考えられる。
*木心乾漆像は脱乾漆像の技法的展開として誕生したが、その基となるものは木性への回帰であり、それは必然的に木彫化の道を進むことになる。木彫化の終着は一木彫であり、木心乾漆像はまさにその道を歩んだ。
*木心部が木彫化していく過程には、塑像の造型心木との関連も想起され、やや純粋な形で造型心木から木心乾漆像に移行したものとして額安寺虚空蔵菩薩像が考えられる。
心木腕部が木彫のように造形された秋篠寺脱乾漆心木も、木彫像誕生への初期的段階を示すものとして重要で、構造材であった桧材が彫刻材として変貌していく過程を示しているといえる。
*一方、木心乾漆像で完成された漆箔の技法は、重要な金色相を表現する不可欠の技法として存続した。また伝統的は捻木屎の技法(捻木屎による矧ぎ目処理の技法)も内部に温存し、平安中期の金色漆箔寄木造りの誕生を可能とした。