埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四回)

  第二十話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その3〉  仏像の素材と技法〜漆で造られた仏像編〜

 【20−6】
【木心乾漆像の技法】

 天平彫刻の華、脱乾漆像についての話しが、随分長くなってしまった。
 そろそろ、木心乾漆像の技法についての話に入ることとしたいが、脱乾漆像の名品に較べて、木心乾漆の諸像が残念ながら見劣りすることを思うと、「さあ、 書くぞ」という気合のみなぎりが、少々鈍ってしまっているのが本音のところである。

 ここまで書いてきた、脱乾漆像の代表作の造形美、
 ・三月堂不空羂索観音像の緊張感と崇高感をたたえた理想の造形、
 ・興福寺阿修羅像のみずみずしさともの哀しさとの見事なまでの表出、
 ・唐招提寺盧舎那仏像の気宇壮大で沈静な充実表現、
 そこには、「天平彫刻の華」という言葉が、見事なまでにあてはまる。
 これらの傑作が私に訴えかけてくる、「天平の美」のすばらしさに今一度思いを致すと、木心乾漆像の有名諸像は、どうしても出来栄えが見劣りするという か、緊張感が緩んで甘くなってきてしまっているように、私は感じてしまうのである。

 聖林寺十一面観音像、観音寺十一面観音像、唐招提寺千手観音・薬師如来像、西大寺塔本四仏像といった、木心乾漆像の代表的作品を見ると、頂点を過ぎた落 日の美しさ、滅びゆくのなかの感傷的美しさ、そして形式化というものを感ぜずにはいられない。

 杉山二郎は自著「天平彫刻」(至文堂刊)で、木心乾漆の諸像について、このように述べている。

 唐招提寺千手観音像については、

「(唐招提寺薬師如来立像に較べ て)そうじて千手観音像の表情の方が力強く張りがあり、生きた表情が感ぜられる」
と積極的評価をしているが、

 薬師如来立像は、
「形姿全体が硬く、形式化に堕し ている。・・・・眉も、思い切って伏し目にした細い目も、鼻梁も口唇も、表情を統一的に表す作用をみせず、ばらばらになり、まとまった印象が希薄であ る。」

 
唐招提寺 千手観音像     唐招提寺 薬師如来像

 西大寺塔本四仏像は、

「形姿は重量感の表現のためにの み作者の神経が働いているような印象すらある。像容は人間形姿の均衡の取れた美しさや崇高美を犠牲にしている。」
観音寺十一面観音像は、
「その造形感覚は、表情では優美な甘さをたたえて、観る人に親しみやすさを与えている反面、造形上の不徹底さあいまいさが目立ち・・・・・・決して賞賛す べき美しさをたたえてはいない。しかし文学的趣味から発した賞賛が、仏像を見る初心の人たちを存外たやすく陶酔させるとみえ、この天平末年に造られた造仏 所末流芸術に心酔する人たちの多いのもおもしろいことである。・・・・・・・
その造仏現象は、落日寸前の残照が以前にもまして、しばしのあいだ明るく映える瞬間のように思えてならないのだ。」

 
西大寺 塔本四仏 宝生如来像     観音寺 十一面観音像

 木心乾漆諸像がこのように語られてしまうのは、天平最盛期の技法であった脱乾漆像の後、天平彫刻が衰微期に 入っていく天平後期から平安初期にかけて行われた造像技法である、木心乾漆技法の仏像の宿命ということなのかもしれない。

 とはいっても、木心乾漆諸像は、我国古代彫刻を代表する作品であり技法であることには間違いない。
 気合を鼓舞して、その技法について綴っていこう。


 木心乾漆像の構造を一言で言うと、脱乾漆像を作るときの塑土原型の部分を木彫に置き換えたものといえる。


井寺 千手観音像

 まず、木彫で大体の仏像の形を彫っておき、その上に乾漆の付着を良くするためと像の補強を兼ねて、荒い麻布 を1〜2枚張り、これに木屎漆(抹香漆)を盛り上げて造型し、細部の仕上げを行う。
 天衣や指先など体から遊離した部分は、脱乾漆像と同様に鉄線などを芯にして木屎漆を盛り上げて仕上げる。
 脱乾漆像と木心乾漆像の違いは、仏像の外見を一見しただけでは、はっきりとは判別できないといわれる。葛井寺の脱乾漆・千手観音坐像は、千手部分が木造 であったことからか、かつては木心乾漆像であると思われていたことがあるという話しも聞いたことがある。
 しかしながら、先にも記したように、この二つの技法は、人間の眼で見ると、そのソフトさや肌触りのようなものの微妙な質感、フィーリングが違うように、 私は感じている。


 【木心乾漆像の内部構造について】

 さて、この木心乾漆像の内部構造は、どのようになっているのだろうか?
 木心乾漆像は40躯余の遺品が現在残されているが、その木心部の造り方、構造は、皆一緒なのだろうか、それぞれ違うのであろうか?

 当たり前ではあるが、木心乾漆像の内部構造は、昔はほとんど知ることができなかった。
 脱乾漆像の場合は、破損していて内部がわかる場合や、修理の際などに内部の骨組みや造像法を知ることができるものも多く、以前からその内部構造の多くが 知られていた。
 一方、木心乾漆像の場合は、木心部に盛り上げられた乾漆が彫刻の生命になっているので、破損箇所から内部構造を知ることは難しく、不明な点が多かった。

 この問題を解決・解明したのは、「X線透過撮影」という科学的調査技法であった。
 X線で透過撮影すると、骨格となる心木の構造が、ほぼ判明するのだ。
 仏像の「X線透過撮影装置」が開発製作されたのは、昭和24年のこと。
 文化財研究所の久野健は、この装置を用いて5〜6年がかりで多数の木心乾漆像のX線透過撮影を行い、この成果によって木心乾漆像の内部構造の多くを明ら かにした。
 この「光学的方法による古美術品の研究」の経緯や道程については、「第11話〜仏像を科学する」の項でふれておいたので、参考にしていただければと思 う。
 その後、昭和50年代に、東京藝術大学の本間紀夫が、木心乾漆像の遺品のすべて(42例)についてのX線透過撮影調査を行い、その研究成果を「X線によ る木心乾漆像の研究」という大著で刊行(S62)、我国の木心乾漆像のすべての内部構造が明らかになったのである。

 
X線撮影する久野健         維摩居士を像をX線撮影する本間紀夫

 久野健は、透過撮影調査をした木心乾漆像について、その心木構造の違いから、次のように分類した。

分類久野健の分類説明該当像
木骨木心乾漆像薄手の木の像の形につくり、それを木胎として乾漆をかけているものであるが、さらに内部の空洞には脱活乾漆像に見られるのと似た木骨を入れているもの法隆寺伝法堂東ノ間
阿弥陀如来像両脇侍像
木寄式木心乾漆像二つ乃至数個の木を寄せて基本部の木心を造っているもの。
簡単にいえば、木骨木心乾漆像の木骨を取り除いたようなものだが、内刳が小さくなっている。
大体基幹部の木心は前後矧ぎで両腕は別木で造られている
額安寺虚空蔵菩薩像
高山寺薬師如来像
東博日光菩薩像
東京芸大月光菩薩像
一木彫木心乾漆像頭部、胴部、脚部塔の基本部を一木で造り、両腕を矧木にし、それを心にして厚く乾漆をかけたもの。
胸から腰にかけて方形の大きな内刳りを彫ることも、この造り方の特色
聖林寺十一面観音像
観音寺十一面観音像
高時(鶏足寺)十二神将像
唐招提寺仏頭・菩薩像
唐招提寺薬師如来像
本体木心乾漆像たくさんの木を寄せて基本部を造り上げ、その上に乾漆をおいたもので、その木の寄せ方には余り共通性はない。
また、内刳もない
岡寺義淵僧正像
西大寺吉祥天像
唐招提寺千手観音像
興福寺北円堂四天王像

該当像の分類は。「光学的方法による古美術品の研究」所載の論文によるものだが、美術研究所所載の「木心乾漆像と平安初期」(S28)では、興福寺北円堂四天王像を一木彫木心乾漆に分類している。

 そして、この木心の内部構造の類型と制作年代の関係などを論じた。


法隆寺伝方堂東ノ間 勢至菩薩像構造図
(日本の美術 乾漆仏より転載)

 久野は、脱乾漆像から木心乾漆像への移行展開していく上で、法隆寺伝法堂東ノ間阿弥陀如来像・両脇侍像の内 部構造に注目した。
 この像は、薄手の木を像の形に造り、それを心にして乾漆を盛り上げているのだが、内部の空洞には脱乾漆像に見られるのと似た木枠を入れている。
 木心の厚さが極めて薄く、体内の木骨と相俟って基本部が造られていることが特色で、さらには、阿弥陀如来像は頭・胴部は木心乾漆造だが、膝部は脱乾漆造 らしいと考えられる。
 即ち、脱乾漆像と木心乾漆像との技法的親近性を示すもので、この像が遺品最古の木心乾漆像と考えられることなどから、木心乾漆の技法が脱乾漆像から生ま れたと考えて良いとした。

 
法隆寺伝法堂東ノ間 阿弥陀如来像と内部構造図
(日本の美術 乾漆像より転載)

 また、丸尾彰三郎が大正時代に論じてから有力説となっていた、
 「平安木彫は天平時代の後半から流行をみた木心乾漆像の乾漆部が薄くなり、内部の木心が独立して木彫が生まれたのではないかという説」
 について、一木彫木心乾漆は天平後半期から製作されており、木寄式・木体木心乾漆像は平安初期になっても多く制作されていることなどから、考えられない とした。


 本間紀夫は、自著「X線による木心乾漆像の研究」の中で、詳細な調査研究の結果を踏まえて、この久野健の分類には少々無理があることを指摘し、木心乾漆 像の基本構造の分類は、「一木式と寄木式」のいずれか二つに分類することが妥当だとした。
 即ち、久野が木骨木心乾漆とした法隆寺伝法堂東ノ間阿弥陀如来像・両脇侍像は寄木式に、木体木心乾漆とした4像のうち、岡寺義淵僧正像・興福寺北円堂四 天王像は一木式に、西大寺吉祥天増・唐招提寺千手観音像は寄木式に分類されるべきであるとした。

 久野健も、本間の書に寄せた序文の中で、

「昭和20年代という、まだ敗戦 の傷跡も生々しく残っていた時の研究である。経済的にも恵まれず、電力事情も悪かった。撮影中に停電することもしばしばで、また、経費の節約のため、仏像 の半身を撮影し、残りを類推せねばならないことも多かった。このため今日では訂正せねばならないX線フィルムの読み違いも多い」
と述べている。

 そして久野健は、昭和62年発刊の「日本の美術〜乾漆仏〜」(至文堂刊)では、4分類とせず、「木寄せ式木 心乾漆像と一木式木心乾漆像」の2分類とし、先の本間紀夫の指摘に則った該当像の分類に区分している。


        

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