司馬鞍首止利(1/2)

平田 まり

 

 飛鳥、奈良時代につくられた仏像は、奈良京都を中心にして日本各地に、千年近くたった今日まで残っていて、その研究も盛になされている。しかし、その仏像をつくった人達つまり、仏師とか仏工とかいわれる人については、あまりよく知られていないし研究も少ない。現在まで、形として存在している仏像を研究するのに比べて、その多くが当時の民衆の一人であった仏師たちについては、彼らについて書かれたものも少なく、その足跡を追うのは困難であるからであろう。

 しかし、.仏像の作者を知ることは、仏像を見ていく上でも大切であろう。

 これから、私は我国に於ける仏教彫刻の発生期である飛鳥時代をみてみて、我国に於ける仏師の誕生の様子を考察してみたい。そして飛鳥時代の仏師といわれている司馬鞍首止利についてみてみて、本当に止利が仏師であったのかという根本的なことを、検討してみたい。今まで、止利についてはいろいろ考察されているが、このように止利の仏師の資格を問題としたものは少ないように思える。しかしこの問題を無視して、止利がどの仏像をつくったのかということ云々したり、止利と北魏様式の関係を考えてみても無意味ではなかろうか。私は、司馬鞍首止利について、このように最も初歩的な所から出発してみようと思う。

 

 飛鳥時代

 「仏師」という言葉は飛鳥時代(注1)に於ては、どのような人々のことを指していたのであろうか。天平時代以後は、仏像彫刻技術者を一般に指している。飛鳥時代で文献上に「仏師」という言葉が見られるのは、小林剛によると、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘文中に記されている「司馬鞍首止利仏師」だけであるという。であるから飛鳥時代に「仏師」という語がいかなる意味で使用されていたのかは、はっきりは判らない。ここでは、仏像の制作に関係した人というような広い意味で使用したい。

 飛鳥時代の仏師としては、わずかに司馬鞍首止利一人の名が知られているだけで、他の仏師の名は残っていない。飛鳥時代に我国でつくられたと思われる仏像が現在まで残っているからにば、それらの仏像をつくった人々が必ず存在していたはずなのたが、そ.れらの人が一体どのような人々であったのか、ほとんどわかっていない。仏師というのは、仏教流伝に伴なった仏教文化の中て必要となった工人てある。であるから我国に於ける仏師の発生というのは他の工匠に比べて新しくなる。毛利久は、飛鳥時代には「仏教彫刻において氏上が氏人と部民(専門技術者)を支配し独自の世襲的な職業を営み、それによって大和朝廷に奉仕していたような職業集団の存在が文献その他の資料によっても形跡はない」といい、そして「当時における仏教彫刻の制作はかなり特殊なもので量的にも限界があり、仏工の専門的な部が独立する条件はまだ整っていなかった」といっている。造仏などは、仏教伝来までは我国では行なわれなかったことで、従来、我国に造仏の技術を修得していた人は存在しなかったのであるから、仏教が伝来してまもない飛鳥時代に造仏技術を世襲する部が存在しなくても不思議ではない。

 毛利久は、止利が元来は鞍作を専門とする鞍部の出身であることや、日本書紀に画工が樟の仏像二躯を造ったという記録があることを挙げて、飛鳥時代には「鞍工であれ画工であれ多少とも彫刻技術に関係のある既成の技術的部民がかたわら仏教彫刻の制作に従った」といっている。野間清六も鞍部が止利のような仏師を生んだ原因を述べた中に(注2)、鞍作の技法に直ちに造仏に応用し得る共通性があった(注3)ことを指摘して、「鞍部が仏法が興隆し造仏が要求されるや仏工の乏しきままに、片手間に造仏に従事していて」後に止利のような仏師がでるように造仏を専門とする仏工に転出していったといっている。

 これらは、従来の工匠が、造仏の要求によってその専門の技術を造仏に応用して造仏に従事するようになって、遂には仏工となった、つまり、内からの仏師の誕生である。しかし、我国で最も初期の仏師としては、中国や朝鮮からの渡来人の方が思い浮ぴやすいであろう。渡来人は、来朝してそのまま往みついて帰化人となってしまった人も多いのだが、彼らは、上代に於てば政治文化等あらゆる分野で重要な役割を果した。仏教美術に於ても、仏教そのものが中国朝鮮を通して我国に伝えられたものだけに、彼らの功績は測り知れない。蘇我馬子が我国で初めて法師寺である元興寺を造営した際も、当時我国には造寺に従事する工人がいなくて百済の使者に依頼して工人を送ってもらっている。この工人の中に仏工が混っていたのかどうかははっきりしないが(注4)、その可能性は考えられるし、たとえこの時は、来朝しなかったにしても、このような形で飛鳥時代にやってきたに違いない。

 我国で最初につくられた仏像は、彼ら渡来人によってつくられたのではなかろうか。そして、それらの仏工たちが、そのまま帰化して、その子孫が造仏を専門とする部となったのではなかろうか。奈良時代の仏師の多くが、新しい帰化人の子孫であることからみて、そう無理ではないと思う。

 私は、飛鳥時代の仏師は、このように、内部からと外部からと二つの方面から誕生したのではないかと思う。そして、造仏を専門とする部としてはっきり形がなかったため、文献の上に残ることもなく、実体がわからないのであろう。

 

 次に司馬鞍首止利仏師についてみてみたい。止利は法隆寺金堂の釈迦三尊像の作者として有名で、その他にも飛鳥元興寺の丈六釈迦如来像、俗にいう「飛鳥大仏」の作者ともいわれている。司馬鞍首止利については、小林剛や野間清六の研究(注5)があり、これより以下は、この二氏の研究論文をもとにして述べてみたい。止利白身について触れる前に、彼の父祖についてみてみたい。元興寺の釈迦如来像が完成した際に、推古天皇が止利仏師に賜った詔より、彼の祖父が司馬達等で父が多須那であることが知られている。司馬達等は、扶桑略記に継体天皇十六年(522)春二月に来朝した大唐漢人で大和国高市郡坂田原に草堂を結んで仏像を安置し仏教に帰依していたと記されている。しかしながら、この記事、特に継体天皇十六年来朝説に対しては、そのまま信じることはできないといわれている。野間清六は扶桑略記の史的価値より疑問とし、小林剛は達等の娘嶋女(善信尼)が敏達天皇十三年(584)に十一才で出家したという日本書紀の記事より、達等が継体天皇十六年に来朝したとすると、嶋との歳の関係が不自然で無理だといっている。町田甲一も、日本書紀に達等らの仏法の為の功績を述べながら、達等が仏像を携えて来朝したということには全くふれていないどころから、達等の来朝説には多くの疑問があるといっている。

 達等以前にも鞍部の名は日本書紀などに見出される。日本書紀雄略天皇七年(462)の條に「鞍部堅貴」が陶部高貴や面部因新羅我等と共に、上桃原、下桃原、真神原に遷居した旨の記事がある。小林剛や野間清六は、司馬達等はこの鞍部高貴の後蕎ではないかとしている。町田甲一は中国の「宋書」の「倭国伝」に倭王讃が宋の太祖文帝の元嘉二年(425)に国使として遣したと記されている司馬曹達が達等の直系の祖先で、止利一族の鞍部は継体天皇の時代に来朝帰化した一族と考えるより、仁徳朝(注6)に来住帰化したものと考えるのが妥当としている。

 いずれにしても、達等の継体天皇十六年来朝帰化は怪しく、それ以前に帰化した鞍部の一族の子孫であるということになろう。

 達等の名は、日本書紀にも見られる。

 日本書紀の敏達天皇十三年(584)の条によると、この年に蘇我馬子が二躯の仏像を祀るために僧侶を探した時、達等はその使者となつて活躍したという。又その時、彼の娘の嶋女が出家して、日本最初の尼となった。そして、達等は大会の時、斎食の上に仏舎利を得て、馬子にこれを献じたと伝えられている。次に父の多須奈についてみてみると、日本書紀の用明天皇二年(587)に天皇の病気が重い時、多須奈は、病気平癒を祈って出家し丈六の仏像と寺を造ることを誓願した。それが即ち南淵坂田寺と木の丈六仏挟侍菩薩であると記されている。そして同じ日本書紀の崇峻天皇三年(590)に多須奈が他の僧侶と共に出家したことが記されている(注7)。

 このように祖父の達等も父の多須奈も、仏教伝来の早い頃から仏教に帰依して仏法の隆盛にも功績があった。このような中に止利は生まれたのであるから、彼自身仏教に関係が深く、造仏に関係するようになっても自然のことに思われる。

注1 私は、飛鳥時代を大化の改新のあった六四五年までとしている。

注2 野間清六氏「止利仏師に関する考察」「夢殿」十七

注3 野間清六は、鞍作は鞍橋のみでなく鞍、杏葉、鐙、鞍覆其他馬具全体の制作に従事したものと見られ、その木技術は木工、金工、繍工、鞍工等の多岐に亘っていた。だから、造仏に従事するに当っても制作の対象物を異にするのみで技術的には何ら新しい困難は存在しなかったと言っている。

注4 日本書紀や元興寺資財帳には、来朝した百済工人の種類として、造寺工、画工、鑪盤工、瓦工が記してあるが仏工の記載はない。

注5 小林剛氏「司馬鞍首止利仏師」昭和三十三年七月「美術史」二九号

   野間清六氏注2参照

注6 町田甲一は、王讃は、仁徳天皇であったとしている。

注7 多須奈について扶桑略記の用明天皇二年(587)の条に「百済仏工鞍部多須奈」という記事が、又聖徳太子伝暦上巻の用明天皇二年のところに「仏工鞍造部多須奈」と記されているのがみられる。これから多須奈が彫刻技術者であったと考える人もいる。しかし、達等の来朝帰化説が誤りで、ずつと以前に帰化した一族の子孫であるとすると、多須奈の頃には、既に日本人化していたはずである。そのような多須奈を指して「百済仏工」というのはおかしい。又日本書紀には、多須奈が造寺造仏を誓願したことが記されているが、多須奈を彫刻技術者であったとすると、仏工自身が造仏を発願したことになり奇妙である。であるからこれらの記事は、日本書紀の用明天皇二年の条を読み違えて、誤り記したのではないかと思う。 

    

 
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