【第12話】  道成寺 根本本尊・千手観音像 発見物語



【目   次】


1. はじめに


2.根本本尊・千手観音像の発見物語


3.三躯の本尊・千手観音像の制作年代と伽藍の変遷


4.復元修理で美しい姿によみがえった根本本尊像





1.はじめに



「安珍、清姫の娘道成寺」で有名な、和歌山県日高川町の道成寺の根本本尊・千手観音立像の発見物語を、ご紹介させていただきます。




発見後 復元修理された、道成寺根本本尊・十一面観音像



道成寺の根本本尊・千手観音像は、昭和62年(1987)に発見されました。

なんと本堂に北面して祀られる、厳重秘仏、北向き本尊・千手観音像の胎内から発見されたのでした。
バラバラになって破損し、損傷した多数の部材になった状態で、北向き本尊の胎内に籠められていたのでした。




道成寺〜本堂と三重塔


発見された破損仏像は、奈良時代の制作とみられ、道成寺の奈良時代草創期にさかのぼる千手観音像であろうと考えられました。

まさに、

「道成寺草創期の本尊・千手観音像が見つかった!」

という、大発見となったのでした。

新発見後、欠失部分も含めた復元修復が行われ、奈良時代風の美しい仏様の姿に復元されました。

この像が、現在、道成寺の本堂に祀られている、根本本尊・千手観音像です。

平成2年(1990)には、国の重要文化財に指定されました。



【道成寺にのこされる 3躯の千手観音像】


発見物語に入る前に、道成寺の残されている3躯の千手観音像について、ふれておきたいと思います。

次のとおりです。

T.根本本尊・千手観音像 (奈良時代〜乾漆造・木彫併用) 重要文化財

U.本尊・千手観音及び両脇侍像 (平安前期〜一木彫) 国宝

V.秘仏北向き本尊・千手観音像 (南北朝時代〜寄木造) 重要文化財




道成寺・根本本尊千手観音立像(奈良時代〜乾漆造・木彫併用) 重要文化財




道成寺・本尊千手観音立像(平安前期〜一木彫) 国宝



一般には、道成寺の千手観音像といえば、「Uの千手観音立像」のことが思い浮かぶのではないでしょうか。
国宝に指定されており、平安前期の制作の見事な木彫像です。
長らく、道成寺のご本尊・千手観音像として、本堂に祀られていました。
現在は、宝仏殿(宝物館)に安置されています。




現在、宝物殿に安置される、国宝・本尊千手観音立像



これらの3躯の千手観音像と道成寺の伽藍変遷との関連や位置づけについては、後程、改めて触れたいと思いますが、それぞれ道成寺の重要な千手観音像として造立されたものと考えられています。

この発見物語では、それぞれの千手観音像のことを、

「根本本尊」(新発見) 「本尊」 「北向き本尊」

という言葉で呼んでいきたいと思いますので、ご承知おきください。




2.根本本尊・千手観音像の発見物語


さて、ここからは、根本本尊・千手観音像の大発見物語をたどってみたいと思います。



【北向き本尊胎内から破損仏を発見〜きっかけは本堂の解体修理】


昭和62年(1987)のことでした。

道成寺の本堂が、保存計画の推進によって、解体、修理されることとなりました。

そのため、厳重秘仏・北向き本尊を、堂外に移動させることになったのです。



道成寺本堂の北面〜北面に秘仏北向き本尊が祀られる


北向き本尊は、本堂の南向きに安置されていた本尊像と背中合わせに、北面して祀られていました。

北向き本尊は、南北朝時代の制作ですが、33年に一度しか開扉されない厳重秘仏で、調査されたこともなかったようです。
像高342pという巨像です。
北向き本尊を移動する際に、たまたま右手の体側部側が外れて、像の腰部の背面よりの埋木の穴から、体内を覗くことができました。
なんと、そこには仏像が籠められているのを見て取ることができたのでした。

「胎内仏の新発見」でした。




破損仏が胎内に籠められているのが発見された北向き本尊


「胎内に籠められていた仏像」は、取り出されることとなりました。
体の正面の材が蓋板状になっており、その部分がまるで扉を開くように、あいたのでした。




北向き本尊胎内から取り出される破損仏像(根本本尊)


体内に籠められていたのは、激しく損傷した仏像の体幹部や、多数の破損した千手観音の手などでした。
破損仏は肉身部の約7割が欠損しており、また誠に惜しいことに面部は欠損してなくなっていました。
全身の背面部が表皮のように薄く残っているだけで、他には両膝部と脇手と手首多数という現状で、中心部材と顔面部及び胸・腹部の部材は殆ど残っていなかったということです。




損傷した根本本尊・千手観音像の部材




【胎内破損仏は奈良時代の本尊・千手観音〜鞘仏として造られた北向き本尊】


驚いたことに、この発見された胎内仏は、奈良時代の造形で、乾漆造・木彫併用、クスノキ材の仏像だったのです。

何らかの事情で損傷してしまった、

「道成寺のかつての本尊・千手観音像であったことに間違いない。」

のは、明白でした。

その像が朽損、破損して、北向き本尊が巨大な鞘仏として造立され、その体内に奈良時代の千手観音像(根本本尊)が籠められたのでした。

朽損、破損仏像とはいえ、

「道成寺の奈良時代の千手観音像(根本本尊)の大発見」

となったのでした。


この道成寺での「体内仏」(根本本尊)の大発見を、当時の読売新聞は、


「日本最大の胎内仏
道成寺本尊内、奈良後期の作」


という大きな見出しで、このように報道しています。



道成寺根本本尊像発見と報じる読売新聞(1987.9.22朝刊)



「安珍清姫の伝説で知られる和歌山県川辺町の天台宗道成寺で、33年ごとに開帳する北面本尊、木造千手観音菩薩立像の胎内から、2メートル超え、胎内仏としては日本最大とみられる木造千手観音立像がみつかったと、21日、同県教委が発表した。
重要文化財に相当する貴重な発見という。

みつかった胎内仏は大きさが2.46メートル。
一木造で前面の顔、胸、腹部は朽ちて欠落しているが、後頭部からでん部はほぼそのまま。
背中などには金箔も残っていた。
仕上げの技法などから、奈良時代後期、8世紀末の制作とわかった。

胎内仏を納めた北面本尊は大きさが3.42メートル。
胎内仏から約550年後の南北朝時代、14世紀の作で、鑑定に当たった小野寺久幸美術院国宝修理所長は
『胎内仏が本尊だったが、破損がひどくなり、保存しようと新たに本尊を作ってその中に納めたのではないか』
と話している。
・・・・・・・・・・・・・・
発見のきっかけは、本堂修理のため厨子に安置された北面本尊を移した際、腰に埋め木をみつけ、中を調べてわかった。」
(昭和62年(1987)9月22日付 読売新聞朝刊)


発見された根本本尊像は、鞘仏の北向き観音像とともに、発見の3年後、平成元年度(1990)に、新たに重要文化財に指定されました。

指定名称は、

・木心乾漆千手観音立像(面部欠) 1躯

・木造千手観音立像(鞘仏) 1躯

となっており、セットで一括重文指定となりました。




3.三躯の本尊・千手観音像の制作年代と伽藍の変遷



この根本本尊の大発見で、道成寺には3躯もの大きな千手観音立像が存在することが明らかになりました。

「新発見、根本本尊」、「本尊(宝仏殿安置)」、「秘仏・北向き本尊」

です。

それぞれの仏像の制作年代や、道成寺の伽藍の変遷などとの関係は、どのように位置づけられるのでしょうか?

数次にわたる道成寺発掘調査の結果によって判明した道成寺の伽藍変遷の画期と、3躯の千手観音像の制作時期の位置づけを、簡単な一表にすると、次のようなものになろうかと思います。






発見された根本本尊像は、道成寺草創期の本堂の本尊千手観音像として制作されたものだろうとみられています。
奈良後期(A2期)の制作とする見方と、奈良前期(A1期)の制作に遡るという見方もあるようです。

平安前期(B1期)には本堂に礼堂が取り付けられるなどの大修理が行われ、現在国宝の本尊は、この時期に制作され、本堂本尊として祀られていたようです。

この時に、根本本尊がどのようになっていたのかは、よくわからないのですが、地震や火災など何らかの事情によって、破損、損傷していたのかもしれません。

南北朝時代に至って、元講堂の位置に、新たな本堂(現在の本堂の位置)が建立されます。
北向き本尊は、その時に、本尊像の背中合わせにお堂の北面に祀られるように制作されました。
北向き本尊は、損傷した道成寺の根本本尊像を守り、長く伝えて拝することが出来るよう、根本本尊像を体内に収める目的で、鞘仏として造立されたのでした。

以来、本堂で本尊千手観音像を拝する人は、その背中合わせの秘仏・北向き本尊と胎内におさめられた根本本尊との3躯の本尊像を、知らず知らずに拝するということになっていたというわけです。




4.復元修理で美しい姿によみがえった根本本尊像



平成6〜7年度(1994〜5)には、破損、損傷した根本本尊の復元修理が、美術院国宝修理所で行われました。







美術院国宝修理所によって復元修理された新発見・根本本尊千手観音像


この復元修理は、なかなか大変なものであったようです。
なんといっても、木心を含めて肉身部の約7割が欠損しており、一番肝心なお顔の部分が完全に欠失してしまっているのですから、どのように復元、再現するかというのは、なかなか難しいものであったことは、容易に想像がつくところです。



【制作年代の考え方にも、いろいろな見解が】


根本本尊の制作時期についても、(白鳳も含む)奈良時代前期とみる考え方と、奈良時代の後期とみる考え方があるのですから、悩ましいところであったのではないかと思います。

例えば、伊東史朗氏は、次のようなポイントで、8世紀前半の制作とみています。

・用材に飛鳥時代から奈良前期の用材であるクスノキ材が使われていること、

・前面乾漆・背面木彫という変則的木心乾漆造りであること

・背中から急に細くなる腰部の造形表現などに奈良時代以前にさかのぼり得る古い要素が見られること

・千手観音経に基づく造像が行われるのは、奈良時代に入ってからであること

(「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」伊東史朗編2014年9月刊 東京美術刊)



発見された根本本尊像の体幹部


 

根本本尊像の脚部


一方、「道成寺調査報告書」では、奈良時代後半期の木心乾漆像諸例との比較などから、8世紀後半説をとり、次のように述べられています。

「様式の側面から考慮すれば、本像を聖林寺十一面観音像と同時期かやや後の770 年台とするのが自ずと導き出された結論のように思う。
・・・・・
比較する事例が少ないこの時期の状況を勘案して、本像の造立年代には少し幅を持たせて8世紀後半としておく。」
(「道成寺調査報告書」平成24年・2012和歌山県教育委員会刊)

こうした、違った見解が、この根本本尊像の修理・復元制作の際の造形表現の仕方に、何らか影響したのでしょうか?
いずれにせよ、こうした点も踏まえて、完全な仏像の姿、顔かたちに復元修理されたのが、現在の根本本尊像なのです。

当時、この根本本尊像の復元修理を担当した、美術院所員松永忠興氏(現和束工房代表)は、自著でその時のことを、このように振り返っています。

「お寺の方から、飛鳥時代風にとの強い要望があったので、そのイメージで造ったところ、師匠(注:西村公朝氏)が飛鳥風から白鳳風の顔に修正し、その間に挟まってしまい、飛鳥風イメージを残しながら今の顔に直して造り上げた。

本当は、残された手の感じからすると、(飛鳥時代のイメージを残す)特異な顔だと思った。」
(仏像修理40年・松永忠興の仕事〜天平の阿修羅再び 2011年日刊工業新聞社刊 所収)




根本本尊・手指部〜飛鳥風を残すともみられる


松永氏自身が、本当は、どの制作年代の仏像だと思ったのかは、はっきり書かれていませんが、飛鳥時代的なイメージを感じられたようです。

失われた部分を再現復元するということが如何に難しいことか、お顔の復元が仏像の印象を決めるのにいかに大きな意味を持つのかを、考えさせられる話だと思いました。

復元修理の完成は、新聞記事にもなり、朝日新聞では、


「国内最大の胎内仏 修理を終え復帰
和歌山道成寺 安珍・清姫もこれで安心!?」
(平成11年(1996)6月25日付 朝日新聞朝刊)

という見出しで、根本本尊像の復元修理完成を報じました。




道成寺根本本尊像、復元修理完成を報じる朝日新聞(1996.6.25朝刊)



復元修理された像は、現在、本堂に根本本尊として祀られています。




現在、道成寺本堂に祀られている根本本尊像




【新たに見つかった根本本尊・合掌手などの破損部材〜2017年】


最後に、昨年(2017)、根本本尊像について、新たな発見があった話をご紹介させていただきます。

根本本尊像の破損部材の、新たな発見があったのです。
和歌山県立博物館で平成29年(2017)10月に開催された「道成寺と日高川展」の事前調査の際、寺内に根本本尊像の部材が、なお多数残されていたことが判明したのです。

残されていたのは、腕部材10点、右足先などでした。
そして、その部材の中から、優美な合掌手を復元することができたのでした。

新発見の合掌手と、復元制作の合掌手を見較べてご覧ください。




新たに寺内から発見された、根本本尊像の合掌手




現在の根本本尊像の合掌手(復元修理されたもの)



難しいことは全く分かりませんが、新発見の合掌手の造形は、

「掌のふくらみ、指先の曲線など、なかなか魅力的で美しい」

そんな感じがしました。



道成寺の奈良時代草創期の根本本尊・千手観音立像の発見物語ついてご紹介させていただきました。





【2018.2.16】


                


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