【第11話】  富山・立山神像 発見、里帰り物語とその後


〈その1ー2〉



【目   次】


1. はじめに


2.数奇な運命をたどった立山神像〜流転、発見、そして里帰り

(1)立山神像の流出と、その行方

(2)海外流出寸前で発見、里帰りを果たした立山神像(昭和42年)


3.「帝釈天像」であったことが判明した「立山神像」

(1)重文指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更へ(平成27年)

(2)立山の御神体「立山神像」とみなされた経緯

(3)科学的調査研究で「帝釈天像」であったことが判明


4.おわりに






1.はじめに



「立山神像」と称する、小さな銅像のことをご存じでしょうか?




立山神像 (帝釈天像) 重要文化財・鎌倉時代



長らく立山山頂に、御神体として祀られて来た像です。

鎌倉時代の銅造鋳造像で、像高54.4cm、重要文化財に指定されています。
像の刻銘から、寛喜2年(12309の制作であることが判ります。

「立山神像」の名前のとおり、富山の霊峰、立山連峰の「御神体」として、立山山頂の祠に祀られてきたと伝えられています。
まさに、立山信仰の象徴ともいうべきものが「立山神像」なのです。




立山神像  (帝釈天像)



この立山神像は、現在富山県立山町の立山博物館に所蔵されています。

私も、かつて立山博物館を訪れたとき、

「これが、立山信仰の象徴、立山神像なのか」

と、ガラス越しに、小さな銅像をしげしげと眺めた記憶があります。


「立山神像」が発見され、富山の地に里帰りしたのは、昭和42年(1967)のことでした。

明治初年、立山神像は、廃仏毀釈のあおりなのでしょうか、立山山頂から下ろされてしまいました。
その後、明治年間に、県外に流出、行方知れずになっていたものでした。
そして、まさに海外流出せんとするすんでの所で発見され、富山県に買い戻され、里帰りしたのでした。

立山神像の明治年間の流出から、昭和42年の発見、買い戻しに至る話は、まさに
「数奇な流転の物語」
と云っても良いのかもしれません。

約100年を経て、数奇な運命をたどって、里帰りを果たすことが出来たのです。


その流転、発見の物語をたどってみたいと思います。



近年、この立山神像についてもう一つ重要な出来事が起こりました。

3年前の平成27年(2015)、重要文化財「男神立像」の指定名称が、「帝釈天像」に変更されたのです。
この像は、刻銘の判読などから「神像である」とされ、「立山の御神体」とされていたのですが、新たな調査研究の結果「帝釈天像」であることが判明したのでした。

立山山頂に祀られていたとされるこの像は、「神像」として祀られていたのではなく、「帝釈天像」として信仰されていたということが明らかになったのです。

この、立山神像が帝釈天像であることが判明し、重文指定名称が変更されたいきさつについても、併せてご紹介してみたいと思います。




2.数奇な運命をたどった立山神像〜流転、発見、そして里帰り



さきほどもふれたように、立山神像は、昭和42年に発見され、海外に流出する運命であった直前、富山県がこれを買い戻しました。

この立山神像が、立山の地を離れて流転し、里帰りを果たすまでの数奇な物語を振り返ってみたいと思います。



(1)立山神像の流出と、その行方


【立山連峰、雄山山頂に祀られていた立山神像】


立山神像は、明治初年までは、立山信仰を象徴するご神体とされ、厚く信仰されていました。
立山というのは連峰で、3000m級の山々が連なる、信仰の霊峰です。








立山連峰  (下)雄山(峯本社)と別山の位置



その立山三山の一つ「雄山」山頂にある雄山神社・峰本社に、立山神像が祀られていたといいます。
峰本社は、今も雄山山頂にあり、写真で見るだけでも恐ろしげな岩頭に建てられています。




「雄山」山頂にある峰本社〜ここに立山神像が祀られていたと伝えられる



雄山神社・峰本社に祀られていたと書かれている資料が多いのですが、そうではなくて、立山、別山の祠に祀られていたとの見解も有力なようです。
別山というのも、立山三山の一つです。
これまた、険しい山頂の怖ろし気な処に建てられている祠です。




「別山」山頂にある祠〜こちらに立山神像が祀られていたという説もある



立山神像の表面を見ると相当荒れています。
いずれの祠に祀られていたにせよ、長らく3000メートルの山頂社殿に祀られたため、地獄谷から噴出する硫黄ガスのために、硫化して錆びているのだそうです。



【明治初年、山から下ろされ、売られてしまう運命に】


明治維新となり、明治元年(慶応4年・1868)神仏分離令が発布され、その後廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。

そうしたなか、当時、立山神像は仏像だと考えられたのでしょう。
なんと、祀られていた山頂社殿から下されてしまいます。

その後、どうしたわけか明治の半ばごろ、立山神像は、売り払われてしまい、立山の地を離れてしまうことになります。
売られたいきさつについて、このような話が残されているようです。

「(立山神像は)山麓の岩峅寺(イワクラジ)の某社家に他の神像と共に納めてあった。
それを同家の次男の古物商なにがしが富山市内の店舗にならべた。
そのうち、神像は僧侶風の人物に買われて持ち去られたという。」
(吉田実「海外流出を免れた立山神像」芸術新潮215号1967.11)


「明治27年に、芦峅寺(アシクラジ)開山堂本堂増築の費用捻出に苦面していた時、偶々、愛知県春日井郡の加藤師が立山登山に来られ、真長坊佐伯薫氏を仲介して、内々を以て売り渡されたのである。」
(佐伯幸長「立山信仰の源流と変遷」1973)

売られてしまったいきさつの何が本当なのかはっきりしないようですが、立山神像は、明治の中頃迄に売り払われ、その後の行方については、よくわからないという状況になってしまったのでした。



【重要美術品指定となった立山神像〜個人蔵となっているのが判明(昭和17年)


時は過ぎ、昭和17年(1942)頃のこととなります。
立山神像が売り払われてから50年以上経ってからのことです。

富山県文化財専門委員を長く務めた長嶋勝正氏は、国指定の重要美術品目録に

「銅造、立山神像一躯」

とあるのを見出しました。




昭和15年に重要美術品に指定された「立山神像」



「立山神像」というキーワードが、強い関心を惹き起こしたのだと思います。
この像は、昭和15年(1940)に、なんと国の「重要美術品」に指定されていたのでした。

本像が、重要美術品に指定されたきっかけは、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示され、像に「立山神体」「寛喜2年(1230)」の刻銘があると判読されたことによるものでした。




「立山神体」と判読された刻銘〜像の胸部(上部の一行)



所蔵者は、愛知県の浄土真宗・松林寺の住職、加藤一氏となっていました。

この像こそ、

「明治半ばに行方不明になってしまった、立山神像なのではないだろうか?」

長嶋勝正氏は、そのような想像を巡らせたのでした。

長嶋氏は、この像がもともと立山に在ったものかを確かめるべく、愛知県春日井郡の加藤氏を訪ねます。
加藤氏の話によると、

「祖父が富山の駅前の古道具屋から買ったものだと伝え聞いている」

とのことでした。

この話で、明治年間に売られて立山を離れた、立山神像そのものに間違いないと確信したのでした。
この立山神像発見の話は、
長嶋勝正氏著「越中の彫刻」(1975年巧玄社刊)
などで、語られています。

長嶋氏がこの訪問記を地方紙に掲載したことなどから、県内でも立山神像の行方が判明したと、反響を呼びます。

「立山の御神体」を地元に戻したいという機運が盛り上がっていきました。
昭和20年代には、地元立山町の神社総代等が、たびたび名古屋に出かけて所蔵者と折衝し、300万円で本像の譲渡をお願いしたということですが、里帰りは叶わなかったということのようです。



(2)海外流出寸前で発見、里帰りを果たした立山神像


立山神像は発見されましたが、愛知県で個人所蔵となったまま、月日は20余年が経過します。


【外国人に売られようとしていた立山神像(昭和42年)】


昭和42年(1967)7月のことでした。

当時富山県知事であった吉田実氏の処に、知り合いの古美術商から一本の電話がありました。

「むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重要美術品の銅像が、外国人に売られようとしている。」

という話でした。

吉田知事は、古美術に造詣が深く、古美術商とも付き合いも多いようなのです。
それで、このような連絡が入ったのでした。

「外国人に売られようとしている銅像というのは、長らく行方不明となっていた『立山神像』に違いない」

吉田知事は、このように確信したのでした。



【富山県知事の奔走により海外流失を食い止め、里帰りが実現】


吉田知事は、即座に、自身自らこの対応に動きます。

そして、立山神像の海外流出を食い止め、富山県にこの神像を買い戻すことに成功します。
立山神像は、立山山頂から下されてから100年、立山の地を離れ行方不明になってから70〜80年を経て、ようやく、富山・立山の地に戻ることになったのでした。

この時の劇的な発見、買い戻しの物語を、少しばかりご紹介したいと思います。


吉田実氏は、芸術新潮誌上に、

「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)

という寄稿文を掲載し、その時のドラマチックな有様を、活き活きと語っています。




芸術新潮215号に掲載された「海外流出を免れた立山神像」



寄稿文は、このような書き出しで始まります。

「今夏(1967年)、7月10日のことである。
高岡市と東京とで古美術商を営む南健吉氏から、私に次のような電話があった。
東京の『ギャラリー・谷庄』で聞いたが、むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重美の立山の帝釈天というものが、名古屋の美術商の手で、まさに外人の手に渡ろうとしている。
実物は『ギャラリー・谷庄』に預けられてあるが、その期限は今月15日までです、という。

私があわてて聞き返してみると、鎌倉初期の年紀名があること、鋳銅の立像であることなどから、それは私が年来何とか探し出して富山へ取り戻したいと念願していたものらしいことが判った。
私は、たちまち緊張した。」

立山神像は、旧蔵の加藤氏から、同県在住の日本画家のもとに移っており、その画家が没したのち再び流転の運命をたどり始め、海外との商談がまとまりかけているということらしかったのでした。

吉田実氏(当時富山県知事)
即刻、吉田知事は、東京・赤坂の「ギャラリー・谷庄」を訪れ、立山神像と対面します。

「私は、一瞬名状しがたい感動に捉えられた。
それは、かつて写真で見、また話に聞いていた私のイメージの神像よりは、はるかに優れたものであった。
・・・・・・・・・・
私は即座に、万難を排してもこれは富山へ取り戻すべきものだと判断した。」

そして、富山県で購入し、県で保管するべきことを決し、海外流出をすんでの処で食い止めたのでした。

そして7月23日、立山山麓の関係者達が多数で迎えるなか、吉田知事は買い戻した立山神像を携えて、富山駅に降り立ったということです。
買い戻した値段は、500万円だったということです。


寄稿文は、このように語られ締めくくられています。

「私が喜びを禁じ得ないのは、県民の多くが、この立山の神体が郷土に帰ったことを、予想以上に喜んでくれていることである。」



【美術評論家・白崎秀雄氏も海外流出阻止に尽力】


この、海外流出食い止めには、美術評論家の白崎秀雄氏のアシストがあったようです。
白崎秀雄氏は、北大路魯山人研究や、益田鈍翁、原三渓など近代数寄者の評伝で著名な人物です。

白崎氏は、文芸春秋に掲載した

「古美術流出して国亡ぶ」(文藝春秋 1971年1月号)

と題する小文で、その時の思い出をこのように語っています。

白崎秀雄氏
「名古屋の懇意な古美術商が、
『実は客からこういうものの処分を頼まれたが、日本人では指値の500万円で買い手がなく、アメリカ人が買いたいというので売ろうかと思っている』
という。
・・・・・・・・・・・
(白崎氏は、像容・銘文から、それが立山神像であると気がつき)

わたしは、当然それが富山県へ戻されるべきものと考えて、名古屋の美術商にしばらく保留を頼み、北陸出身の在京の古美術商の下に実物を預けてもらった。
そのうえで富山県へ伝手を求めた処、たまたま当時の知事の吉田実氏が直ちに上京されて実物を見るや、これこそ自分らが多年行方を探していた富山の宝であるといわれ、その場で買い取りを約されたのであった。」

文化財への造詣の深い評論家・白崎氏の眼にとまり、氏が海外流出防止に尽力することになったというのは、幸運に恵まれたとしか言いようがありません。



【富山のシンボルとして里帰りした立山神像〜重要文化財指定へ】


富山を象徴する霊峰、立山信仰の象徴と云ってもよい「立山神像」が、明治の流出後、約100年を経て、立山神像は郷里へ戻ることが出来たのでした。
「立山神像が無事帰還」のニュースは、当時のマスコミ各紙にも採り上げられ、「富山のシンボルの里帰り」として大きな注目を浴びたのでした。

そして、翌年(1968年)、立山神像は「国の重要文化財」に指定されることになりました。

重要文化財の指定名称は
「銅造 男神立像 1躯」
というものでした。


以来、立山神像は、中世の立山信仰を物語る貴重な遺品として、鎌倉前期鋳銅像の古例の一つとして、世に広く知られるようになりました。
金銅仏や神仏習合、修験といったテーマの本には、立山信仰を象徴する銅造神像として、採り上げられるようになり、こうした関連の展覧会にも、折々出展されるようになりました。

平成3年(1991)11月に、富山県立山博物館が開館すると、立山神像は同館の所蔵となり、常設展示等で展示され、広く一般の観覧に供されるようになり、現在に至っています。



数奇な立山神像の流転、発見、買い戻しの物語を、振り返ってみました。


〈その2〉では、立山神像の重文指定名称が、「帝釈天像」に変更された訳などについて、見てみたいと思います。



【2018.1.20】


                


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