【第7話】  岩手県〜黒石寺・薬師如来坐像 発見物語


〈その1ー2〉



【目   次】


1.「9世紀唯一の紀年在銘像」が、何故か東北の地に〜黒石寺・薬師如来像


2.黒石寺・薬師像が、正真正銘の平安初期一木彫と認められるまでの道程


3.薬師像の魁偉な容貌、その訳は〜蝦夷への畏れと威嚇か?


4.地方仏が注目を浴び、魅力が語られる契機となった、黒石寺薬師像の発見






ここからは、戦後の仏像発見物語に入っていきたいと思います。


黒石寺・薬師如来像の発見物語です。




黒石寺・薬師如来像〜体内に貞観4年(962)の墨書銘がある〜




1.「9世紀唯一の紀年在銘像」が、何故か東北の地に
〜黒石寺・薬師如来像



黒石寺は、岩手県の中部、平泉の北東14〜5キロの、奥州市水沢区という処にあります。



黒石寺・本堂


毎年正月7日深夜に行われる、裸祭りの奇祭「黒石寺蘇民祭」で知られています。



【昭和25年、黒石寺像から「貞観四年」の墨書銘発見】


この黒石寺の本尊、薬師如来像の像内に、墨書銘が残されており、「貞観四年十二月」の年記があることが発見されたのは、昭和25年(1950)のことでした。

貞観4年といえば、862年です。

この墨書銘が、当初のものであったならば、我国9世紀木彫の中で、唯一の年紀の記された在銘像ということになります。
文句なしの、バリバリの「平安初期彫刻」ということになるのです。
そんなすごい紀年銘のある仏像が、なんと、東北、岩手県で発見されたのです。

「東北地方で、貞観銘仏像が衝撃の大発見!」

という、大変な大騒ぎになったことだろうと思うのですが、実は、そうはなりませんでした。



【信用されなかった紀年銘〜認められたのは昭和30年代に入ってから】


発見された当初は、

「どうせ、はるか後世に作為で書かれた、偽銘に決まっている」

とされて、中央の専門家、研究者には、まともに相手にされなかったようです。

というのも、黒石寺のある地は、平泉のまだ北、古代においては未開の辺境の地です。

「みちのくの辺境の地に、平安初期の一木彫像など、遺されていよう筈がないじゃないか。」
「仏像の姿など見るまでもなく、そんなことはあり得ない。」

このように、思われていたようなのです。


それに、この薬師像は、どう見ても都の仏師が造ったような出来の良いものではなく、粗野で土臭いというか、いかにも地方仏師の手になるような仏像であったのです。

「平安後期ならあるかもしれないが、文化果つるみちのくの地で、平安初期にこのような仏像がつくられる訳がない。」

そう考えるのが、極々自然なことであったのでしょう。


「黒石寺薬師像の墨書銘は、当初のものかもしれない?」

このような眼で注目されはじめたのは、昭和30年前後のことでした。
そして、本格的な調査研究の結果によって、

「墨書銘は貞観4年当初のものに間違いなく、9世紀唯一の在銘木彫仏である。」

と、認められるようになったのです。


この新事実は、彫刻史の世界では、想定外のことであったのだと思います。
奈良、京都の中央の仏像中心に語られていた仏教美術史の常識では、東北の辺境にそのような仏像が残されているなどとは、考えられなかった驚きだったのです。

仏教彫刻史に、大きな一石を投じる発見となりました。
「地方仏」という世界が注目され、光があてられるようになっていったのも、黒石寺薬師像の発見が、大きな契機になったのだろうと思います。


今では、黒石寺の薬師如来坐像と云えば、東北地方の古代彫刻を代表する、9世紀一木彫像として、広く知られています。

東北地方の仏像探訪に出かければ、必ず訪れるお寺になっているのではないでしょうか。




2.黒石寺・薬師像が、正真正銘の平安初期一木彫と認められるまでの道程
〜墨書銘発見から重要文化財指定まで



黒石寺・薬師如来坐像の像内墨書銘が発見され、その後、本像が世に注目されるようになり、この墨書が間違いなく当初のものと認められるようになっていったいきさつを、しばらく振り返ってみたいと思います。



【明治期から存在を知られていた黒石寺・薬師像〜さほどの評価はされず】


黒石寺・薬師如来像の存在そのものは、明治時代から知られていたようです。

調査の等級が記された宝物目録
(写真は東京府宝物精細簿)

明治20年代に実施された「臨時全国宝物取調局」の調査の時に、この薬師像の存在は確認されています。

その際に発行された明治29年(1896)の鑑査状が、黒石寺には残っており、薬師像について「右 美術上ノ参考トナルヘキモノト認定ス」と記されています。
調査結果をまとめた、岩手県宝物目録(東京国立博物館蔵)には、「五等」と注記されています。

「臨時全国宝物取調局」の調査では、宝物のランク評価が「優等、それに次ぐもの、その他」に区分され、1〜8等に細分化されました。
黒石寺薬師像の「五等」は、「優等(1〜3等)」「それに次ぐもの(4・5等)」の中の最下位のランクに位置づけられています。

「五等」のランクですから、存在は確認されたけれども、仏像彫刻作品としては、それほどの評価を得られなかったということだと思われます。



【なかなか受け入れられなかった「北上川流域に平安前期仏あり」という声】


その後、昭和の時代に入っても、東北の古代仏像と云えば、会津・勝常寺の薬師如来などの諸仏が知られていた程度で、岩手県以北となると、知られていたのは藤原期の平泉・中尊寺の仏像ぐらいではなかったでしょうか。

大戦前後になると、在地の史家などからは、黒石寺のある北上川流域に、平安前期に遡るような古仏が、いくつも遺されているという声が、伝えられることもあったようです。


ところが、当時の仏教美術史界では、

「そんな辺北の鄙の地に平安前期の古仏が遺されていよう筈はない。」
「時代がかなり下ってからの、古様を留めた地方仏に違いない。」

このような受け止めで、冷たくあしらっていたというか、まともな議論にならなかったようです。

久野健氏は、自著「仏像の旅」で、その当時の、「みちのくの古仏」に対する学界の受け止めの思い出を、このように語っています。

「この(北上川)流域に散在する古彫刻は、他の地方ではみられない特異な性格をもっている。
この地方の彫刻として、中尊寺の古彫刻は、早くから学者の注意をひいていたが、中尊寺以前の古彫刻が、注目されだしたのは、第二次大戦後のことである。

大戦中この地に疎開した森口多里氏や、北上市の熱心な郷土史家である司東真雄氏らが、この地には貞観時代の彫刻が沢山あるという話を中央の学界にもたらした。
終戦直後頃から、あの強烈な貞観彫刻のさびしい美しさに強く惹かれていた私にも、この話は間接的にはいってきた。

しかし当時の学界では、この話を素直に受け入れはしなかった。
岩手県は、辺邸な土地なので古い様式が後々まで残ったのであろうという見方が強く、積極的にこれをとりあげようとする空気は、少なかった。」
(北上川流域の古仏〜「仏像の旅」久野健著1975.1芸艸堂刊所収)



【昭和25年、黒石寺薬師像体内から「貞観4年」の墨書銘、大発見】


こうした風潮があったなか、なんと、黒石寺・薬師像の体内から、「貞観四年」(862)の墨書銘が発見されたのでした。

墨書銘の発見は、昭和25年(1950)のことです。

貞観4年墨書銘を発見した小林剛氏
発見の経緯は、次のようなものでした。

東北史研究家の司東眞雄氏の案内によって、国立博物館(もしくは文化財保護委員会)の小林剛氏や県文化財委員の吉川保正氏等が、黒石寺を訪ねた時に、薬師像が小林剛氏の目にとまります。
小林氏は、改めて黒石寺に来訪し、県美術調査委員の佐伯敬紀氏とともに調査を行ったときに、体内から貞観銘の墨書が初めて発見されたのでした。

墨書銘を発見した小林剛氏は、仏教美術史に関心ある年配の方には、聞き慣れた名前でしょう。
著名な仏教彫刻史の研究者で、沢山の著作、論考が残されていますので、目にされた方も多くいらっしゃるのではないかと思います。


以前、「観仏日々帖」に「岩手黒石寺の薬師如来像の発見」を掲載したときには、「貞観4年墨書銘発見」に至る経緯、発見時期は、調べてみたのですが、よく判りませんでした。

最近、発表された論考
「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」(西木政統) MUSEUM659号 2015年12月
に、墨書銘が昭和25年に発見されたことや、その経緯がふれられ、

関連資料
・吉川保正「黒石寺薬師如来座像」(奥羽史談4-1・1953年)
・宮城県史編纂委員会編「宮城県史17巻・金石志」(宮城県史刊行会1956年・司東眞雄解説)
に、当時の発見経緯が語られていて、詳しく知ることが出来ました。



黒石寺・薬師如来坐像から発見された墨書銘は、次のようなものでした。
像の膝裏の部分に、ご覧のような墨書が残されているのです。





黒石寺・薬師如来の体内膝裏から発見されたの墨書写真と墨書銘文
写真上部に「貞観四年十二月」の記銘が見える



はっきりと「貞観四年十二月」の墨書が残されています。
年紀の他には、発願者、結縁者かと思われる人の名が、何人も列記されています。



【懐疑的にみられた「貞観4年の墨書銘」〜後世の偽名であろう?】


この墨書銘の発見で、

「東北地方で貞観年間銘の一木彫像大発見」

と、大騒ぎになるかと思いきや、そのような話にはなりませんでした。

冒頭にもご紹介したとおり、

「みちのくの辺境の地に、平安初期一木彫像など残されている筈がない どうせ、後世に書かれた偽銘に決まっている。」

と思われ、専門家には、本気で注目されなかったようなのです。


当時のはなしについて、文化財保護委員会事務局美術工芸課・文部技官であった倉田文作氏は、このような回顧文を残しています。

「岩手黒石寺の薬師如来像について、県の担当官から報告を受けたのは、十年余もまえのことである。
写真もなしに、我々の部屋で、貞親四年の銘文のある薬師さんがある、というはなしで、はじめはいたずらの偽銘でしょう、折があったら像と銘文の写真を届けてください、というぐらいで片づけてしまった。
向うもがっかりしたらしくて、資料が届くまでに二、三年はかかった。

さて、こうして届けられた写真をみると、まさしく平安初期の一木彫成像であり、銘文も古体で、何の疑う余地もない。
岩手まで出張することになり、像は、その後、重要文化財に指定され、今日では修理もおわり、新造の保存庫に坐っておられる。」
(「調査餘談」倉田文作〜日本彫刻史基礎資料集成・平安時代造像銘記編4巻餘録・月報所収1968.4刊)



【昭和29年、奈良博開催「平安初期展」に黒石寺像が出展
〜大注目、驚きの美術史界】


黒石寺・薬師像が、専門家の中で大きな注目を浴び、驚きと共に議論を呼び起こしたのは、この像が、奈良国立博物館で開催された「平安初期展」に出展された時でした。
貞観4年の墨書銘発見から4年後、昭和29年(1954)のことです。


昭和29年開催の「平安初期展」というのは、どのような展覧会だったのでしょうか?



昭和29年、奈良国立博物館で開催された「平安初期展」の目録


展覧会目録の「まえがき」には、

「今次の展観は、さきに催した自鳳天平展の後を受け、奈良時代の文化が平安遷都を契機として如何に変化し発展したかを明かにせんとするものである。」

とあり、平安初期の彫刻、絵画、工芸、古文書の傑作、名品が取り揃えられ、展観されました。
総勢172点、彫刻は48点が出品されています。

展覧会目録の彫刻の処を見ると、

神護寺・五大虚空蔵像、元興寺・薬師像、室生寺・十一面観音像、釈迦坐像、薬師寺・三神像、松尾大社・三神像、法隆寺・地蔵像、獅子窟寺・薬師像

をはじめとして、平安前期の綺羅星のような国宝、重文仏像ばかりです。

これらの有名像に交じって、黒石寺・薬師像が出展されたのでした。



昭和34年に修理修復される前の黒石寺・薬師像の写真
(平安初期展に出展された時はこのような姿だたっと思われます)


黒石寺像を、この平安初期展に出展するというのは、展覧会主催者側にとっては、一つの大きな決断であったのだろうと思います。

展覧会企画をした人は、
「東北地方に、貞観四年銘平安初期一木彫が存在する」
ということを、世に問いたかったのではないでしょうか?


平安初期展に黒石寺・薬師像が出展された時の、美術史界の驚きと当惑を、高橋富雄氏はこのように語っています。

「この仏像は、戦後間もない昭和29年、奈良国立博物館で催された平安初期美術展に展示された。
そして、見る人をおどろかせた。
まず、この年代がはたして信じ得るものかどうか。
このように古い第一号紀年(平安最古の貞観銘木彫像)を、みちのくのこの全く並はずれた仏像に認めてよいかどうか。
正統史学は迷ったのである。
平泉以外、東北古代彫刻は、まだ歴史の位置を与られていなかったのである。」
(「みちのく古寺巡礼」高橋富雄1985.6日本経済新聞社刊所収)


久野健氏は、このように語っています。

「多くの学者が、もしかすると、と考えるようになったのは昭和29年に奈良国立博物館で行われた『平安初期美術展』に、黒石寺の薬師如来像がはこばれ、展観されてからである。
この薬師如来像の膝裏には、まさしく貞観四年(862)にこの像が造られた由を伝える墨書銘があり、もし、これが後世の伝説により書き込まれたものでないならば、ほとんど、平安初期彫刻の唯一の造像銘になるため、議論の的となった。」
(北上川流域の古仏〜「仏像の旅」久野健著1975.1芸艸堂刊所収)


奈良博に展示された黒石寺・薬師像は、これまでの彫刻史の既成概念から外れた仏像であったのです。

美術史界は、これをどのように理解し位置づけたらよいのか、議論が起こり、迷ってしまったといっても良いと思います。



【展覧会目録(図録)に、解説コメントが書かれていない黒石寺像
〜位置づけの悩ましさのあらわれ?】



「平安初期展」の目録の、黒石寺・薬師像の処をご覧ください。



平安初期展目録の黒石寺薬師像が掲載されたページ
(左上の写真は、京都・双林寺〜薬師如来像)


そこには、

「21 重文 薬師如来坐像 一躯 岩手 黒石寺」

と記されているだけです。
「重文」とあるのは記載ミスで、この時点では、まだ重文指定されていません。

なぜだか、他の仏像には皆、解説文が付されているのに、一言の解説文もありません。
「貞観4年の墨書」があることすら、全くふれられていません。
ちょっと変な感じです。

「この仏像をどのように位置づけるのか?
貞観4年の墨書をどう見るべきなのか?」

当時の博物館の関係者の、悩ましさのあらわれのような気がします。



【間違いなく貞観4年の制作と認められた黒石寺像〜進められた調査研究】


この、平安初期展への出展を契機に、黒石寺薬師像は調査研究が進められるようになります。

久野健氏
本格的な調査研究に取り組んだのは、久野健氏でした。

当時34歳、東京文化財研究所・美術部文部技官です。
久野氏も、出展された黒石寺像に注目し、東京から駆け付け、奈良国立博物館において、文化財研究所のメンバーと、この像のX線、赤外線撮影を実施しました。
そして、この光学的調査の結果を踏まえて、その年(昭和29年)の11月、岩手の黒石寺現地に赴き、再調査を行いました。
倉田文作氏も、紹介した回顧文「調査餘談」で、岩手に出張したと記していますが、久野氏等と一緒に調査したのかどうかは、良く判りません。

久野氏は、その調査研究結果を、昭和30年(1955)5月に発表しました。

「黒石寺薬師如来像」美術研究・第183号  (1995.9)

という論文です。

その結論は、

墨書銘の書体や記された人名などから、9世紀当初のものとあると考えて間違いない。
貞観4年(862)に、みちのくの地で、奈良京都の中央の流派には見られない特異な表現の一木彫が、蝦夷と対峙するという環境下で造立されたものと考えられる。

というものでした。


奈良博「平安初期展」への出展、久野氏の調査研究論文発表という合わせ技によって、黒石寺薬師像は、平安初期の在銘彫刻と認定され、平安彫刻、就中、東北古代彫刻の研究や地方仏の研究に、新たな視点、展開をもたらすものとなりました。

新発見と云えるのかどうかわかりませんが、「黒石寺薬師像の大発見」といっても過言ではないと思います。



黒石寺薬師像は、昭和32年(1957)2月に、重要文化財に指定されました。

名実ともに、貞観4年(862)制作の、「9世紀唯一の貴重な紀年銘、平安初期一木彫」と認められたのでした。


昭和34年(1959)には、美術院国宝修理所によって、損傷していた像の修理修復が行われ、現在のお姿になりました。



〈その2〉では、
黒石寺・薬師像が、怖ろしく魁偉な顔貌に造られた訳についての話や、
黒石寺像の発見が、東北地方をはじめとした「地方仏」が注目を浴び、その魅力が語られるようになる契機となった話などに、ふれてみたいと思います。

【2017.9.2】


                


inserted by FC2 system