【第2話】 法隆寺夢殿・救世観音像 発見物語
〈その4ー6〉
【目
次】
1. 近代佛教美術史上、最大の発見〜法隆寺夢殿・救世観音像の開扉
(1)救世観音開扉の劇的物語を振り返る
(2)発見当初から、飛鳥の代表傑作と評価された救世観音像
2.救世観音関連事項年表と救世観音像の古写真
(1)夢殿・救世観音像に係る出来事のピックアップ年表
(2)明治時代に撮影された、救世観音像の古写真
3.フェノロサ、岡倉天心の救世観音発見物語を振り返る
(1)フェノロサの回想〜「東洋美術史綱」
(2)岡倉天心の回想〜「日本美術史講義」
(3)上野直昭氏の夢殿開扉の「伝聞回想」
4.救世観音像の開扉は、本当に明治17年のことなのか?
(1)明治17年、救世観音像開扉への疑問点
(2)夢殿救世観音の開扉年代についての諸説
(3)開扉年代の有力意見のご紹介〜3人の研究者
5.夢殿・救世観音の秘仏化の歴史
6.飛鳥白鳳時代、救世観音はどこに安置されていたのだろうか?
4.救世観音像の開扉、発見は、本当に明治17年のことなのか?
ここまで、フェノロサ、岡倉天心が語った、夢殿・救世観音像の開扉の回顧物語を振り返ってきました。
(1)明治17年、救世観音像開扉への疑問点
開扉の時期については、フェノロサは「1884年(明治17年)の夏」、天心は「余明治17年頃美術取調のとき」と語っています。
このことから、「救世観音の開扉は、明治17年(1884)」の事というのが、定説になっているのですが、
「本当に、明治17年のことだったのであろうか?
フェノロサ、天心の記憶違いで、別の年のことではなかったろうか?」
このような、疑問も持たれているのです。
【法隆寺・現長老、高田良信氏の問題提起】
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高田良信氏
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疑問を提起したのは、現在、法隆寺長老の高田良信氏です。
高田氏は、
「法隆寺に残された法隆寺日記等の記録を検証してみると、別の年であった可能性が高いいのではないか?」
との考えを示しています。
高田良信氏が、そのような問題提起をした事由は、
法隆寺日記など、お寺に残る明治の記録類に、
「明治17年に、夢殿・救世観音が開扉された。」
という記録が、全く見当たらないことでした。
法隆寺日記には、折々の法隆寺での出来事が、詳細に記録されて残されています。
問題は、明治17年には、
「8月16日から20日の間、岡倉天心、フェノロサ、ビゲローの三人が来寺して、法隆寺の諸堂及び古器物を調査した。」
との記録はあるのですが、夢殿開扉のことは何も書かれていないのです。
明治17年、法隆寺諸事願届書類〜ビゲローの寄付金で伝金岡筆の花鳥画修補の旨の御伺書 文中に8/16〜20に天心、フェノロサ、ビゲローが文部省御用に拠り来寺したと記されている
さらには、明治17年前後の何処の年をみても、
「夢殿・救世観音が開扉された」
との記録が残されていないのでした。
フェノロサ、天心の回想記以外に、「明治17年開扉」を示す記録が、一切無いということなのです。
法隆寺にとっては、夢殿開扉は、特記するほどの出来事ではなかったのでしょうか?
それとも、極めて不本意な夢殿・救世観音の開扉であっただけに、敢えて、法隆寺日記などに記されていないのでしょうか?
高田氏は、その他の諸記録を調査検証して、夢殿・救世観音の開扉は、フェノロサ・天心の回想にある明治17年(1884)のことではなくて、明治19〜21年(1886〜1888)のことではなかったのではないかという見方を示しています。
高田氏は、この夢殿開扉年代の疑問について、何冊もの諸著作で採り上げられていますが、その総まとめといったものを、
「夢殿ご本尊救世観音について」小学館編法隆寺刊「救世観音」1997年刊所収
という論考の、「救世観音の開扉年代を考える」という章で、詳細に述べられています。
詳しいことは、この本を読んでいただくとして、此処では、救世観音開扉年代の疑問と問題点のエッセンスだけを、ご紹介しておきたいと思います。
いずれにせよ、明治時代に夢殿・救世観音が開扉、発見されたことに変わりはなく、開扉年代が少々違ったとしても、取るに足りないことに違いありませんが、「救世観音発見物語」を振り返る意味では、是非とも、ふれておきたいと思います。
【夢殿・救世観音開扉に関係する出来事のピックアップ年表】
明治時代の、救世観音の開扉に関係しそうな出来事を、法隆寺に残された記録からピックアップした年表をご覧ください。
先にご紹介した、夢殿・救世観音の関係事項年表から抽出したものです。
高田良信氏は、諸著作の中で、救世観音像開扉の年代について、いくつかの説の可能性を論じています。
ご覧の年表を参考にしながら、ご紹介してみたいと思います。
(2)夢殿救世観音の開扉年代についての諸説
【明治初年開扉説】
夢殿・救世観音は、フェノロサ、岡倉天心の手によって、初めて開扉、発見されたのではなくて、それ以前にすでに開扉されていたのではないかという見方です。
その根拠は、次のようなものです。
・寺での出来事が詳細に記録されている法隆寺日記などに、「夢殿開扉」の記録が、明治17年をはじめ、どこにも見られない。
・それは、明治17年に初めて開扉したのではなくて、それ以前から既に開扉、確認済みであったため、「特記するほどの出来事ではなかった」のではないか。
・明治5年の町田久成、蜷川式胤による「壬申検査」、明治10年の法隆寺宝物献納に関連した「宝物調査」の時などに、法隆寺の宝物を詳細に調査しており、その時などに、夢殿・救世観音も開扉確認済みであった可能性が高い。
・救世観音像に巻き付けられた白布は、明治17年以前に、(何度か?)開扉された都度、元の如くに巻き直されていたのではないか。
すなわち、
「フェノロサ、天心は、救世観音像を拝したときの安置の様子から、これが初めての開扉であるかのように思い込んだのではないだろうか?」
という話です。
ものすごく大胆で、驚いてしまう見方です。
この説は、高田良信氏によって示された見方です。
「近代法隆寺の歴史」 高田良信著 (同朋舎出版1980年刊)
に詳述されています。
確かに、天心は、日本美術史の講義において、
「明治初年、神仏混交の論喧しかりし時、一度これを開きしが、忽ちにして一天墨を流し雷鳴あり。」
「布を除けば白紙を附せるものあり。
これ明治初年雷鳴に驚きて中止したる所なり。」
と語っています。
明治初年に開扉しようとしたのは事実らしく、実はその時、中止したのではなくて、本当は開扉していたのだと考えれば、あり得ることなのかもしれません。
【明治17年(1884)開扉説】
フェノロサ、天心の著述にある通り、明治17年(1884)8月、文部省より京阪地方古社寺調査を命じられ、法隆寺を調査したときに、夢殿・救世観音が開扉、発見されたというものです。
明治17年、文部省の岡倉天心への京阪地方出張申付け辞令
この明治17年の開扉というのが、一般的な定説となっているものです。
何しろ、開扉に立ち会った張本人二人が、明治17年としているのですから、最も信憑性が高いのは当たり前ということになります。
この説への疑問点として示されているのは、次のようなものです。
・先にふれたとおり、法隆寺日記等に夢殿開扉のことが記されていないこと。
・明治17年8月の法隆寺日記には、
「調査来訪者が、フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心の3人であった。」
と記されており、岡倉天心の回顧メンバーと一致しないこと。
天心は、
「余明治17年頃美術取調のときフェノロサ、加納鉄哉と共に、寺僧を諭して秘仏を見んことを請ふ。」
と述べており、メンバーが違うのです。
・一方、法隆寺日記の明治19年5月の記録には
「フェノロサ、岡倉天心、加納鉄哉らが宝物拝観をした。」
と記されています。
岡倉天心(左)、フェノロサ(右)
ビゲロー(左)、加納鉄哉(右)
・さらには、フェノロサ自身が1898年(明治31年)に、米誌「ザ・センチュリー」に寄稿した「日本美術の概観」という論文には」、夢殿・救世観音について
「1886年(明治19年)オカクラ氏と私で発見した仏像である」
と書かれているのです。
フェノロサ自身が、「開扉したのは明治19年」とした文章が存在するのです。
明治17年のこととする、フェノロサ「東洋美術史綱」の原著の発刊が1912年(大正元年)ですから、それよりも14年も前に書かれています。
以上のようなことから、明治17年の開扉というのは、天心、フェノロサの、後の記憶違いで、本当の開扉年代は、明治19年、もしくはその他の年なのではないかというのが、明治17年説への疑問点をなっています。
【明治19年(1886)開扉説】
明治19年開扉説には、5月開扉説と8月開扉説の二つがあります。
5月開扉説は、明治19年5月7日の法隆寺日記に、
「フェノロサ、岡倉天心、加納鉄哉等が宝物を拝観」
したという記録があり、岡倉天心の回顧文の
「明治17年頃美術取調のときフェノロサ、加納鉄哉と共に、寺僧を諭して秘仏を見んことを請ふ。」
という記述と、同行者のメンバーが合致することによるものです。
天心が、明治19年のことを勘違いして、明治17年のことと話したのではないかというのです。
加えて、先にふれたように、フェノロサの別の論文に、1886年(明治19)に救世観音を発見したと書かれていることも、論拠になっています。
8月開扉説は、明治20年に作成、宮内省等に提出された「法隆寺宝物古器物古文書目録」に、次のような記載があることによるものです。
「宮内省検査済 (夢殿)本尊観音木造壹体 高さ六尺五寸 後背共八尺」
と法量が初めて記されるとともに
「明治19年8月21日宮内文部内務各省より御出張御検印附の分」
との付記がなされているのです。
これは、明治19年(1886)8月21日に宮内省、文部省、内務省から法隆寺へ出張して調査を実施し、その際に検印札を貼ったことが明示されているのです。
この記録が、夢殿本尊の法量が記された初見の記録となっています。
こうした法隆寺で作成された記録から検証すると、夢殿・救世観音像が開扉されたのは、この時、明治19年8月のことではなかったかという見方です。
【明治21年(1888)開扉説】
夢殿・救世観音像が開扉、発見されたのは、明治21年の「近畿地方古社寺宝物調査」の時であるという説です。
この、「近畿地方古社寺宝物調査」は、宮内省図書寮頭であった九鬼隆一をヘッドとする、政府実施の初めての大々的な宝物調査というべきものです。
九鬼隆一自身をはじめ、岡倉天心、フェノロサも調査に参加し、カメラマンなども入れれば総勢31名という大調査団が組成され、7か月間の調査で、6万1千点以上の古器物を実見、調査しています。
法隆寺に調査に訪れたのは、6月8日のことで、この時に夢殿が開扉されたのではないかという見方です。
この説のよりどころは、先にご紹介にした、上野直昭氏の「岡倉天心回顧」という講演で、夢殿開扉の時の有様を伝聞したという話の内容です。
上野直昭氏は、又聞きの話としながらも、
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九鬼隆一
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九鬼隆一が夢殿・救世観音の厨子開扉に立ち会っていて、九鬼本人が救世観音に巻かれた布を解いたのだ
と話しているのです。
上野氏は、
「九鬼さんは布を解く手を時々止めて、勅命々々と叫び、また解いて行く。」
と、その場を見てきたような、生々しい話をしているのです。
実は、九鬼隆一が夢殿開扉に立ち会っていた、と書かれている本が、もう一冊あるのです。
あの有名な、和辻哲郎著「古寺巡礼」です。
夢殿・救世観音開扉、発見についての記述の処で、
「フェノロサは、同行の九鬼氏と共に、希有の寶を見出すかも知れぬ期待に胸をおどらせながら、執念深く寺僧を説き伏せにかかった。」
と記しているのです。
和辻が「古寺巡礼」を出版したのは、大正8年(1919)のことですから、その頃には、夢殿開扉に九鬼隆一がフェノロサ、天心と共に立ち会っていたという話が存在したということです。
九鬼隆一が開扉に立ち会っていたのだとすると、それは、明治21年(1888)のこととしか考えられないのです。
というのは、九鬼隆一は、明治17年5月に駐米特命全権公使の内命を受け、渡航準備などの上、9月14日にワシントンに向け日本を旅立っており、帰国したのが明治21年2月のことです。
フェノロサ、天心の手によって、救世観音像が開扉されたかと思われる、明治17年8月と明治19年には、九鬼隆一が同時に立ち会うことは難しかったはずで、法隆寺日記にも、この時の来訪者として九鬼隆一の名は記されていません。
若し、本当に、九鬼隆一が一緒に立ち会っていたとするならば、明治21年6月の「近畿地方古社寺宝物調査」の時しかあり得ない、ということになる訳です。
以上が、夢殿・救世観音像の開扉、発見年代についての諸説です。
本当は、何時、開扉されたのでしょうか?
今になっては、真実をはっきりさせることは、なかなか難しそうな感じです。
(3)開扉年代の有力意見のご紹介〜3人の研究者
「開扉年代をどう見るか?」については、研究者により、様々なコメントがなされています。
此処では、大変有力、重要と思われる3氏の考え方をご紹介しておきたいと思います。
【高田良信氏〜明治19年8月が最有力、もしくは明治21年】
まず、第一に、法隆寺長老、高田良信氏の考え方です。
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高田良信氏
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夢殿開扉年代について、一番詳しく論じている仁だと思います。
高田氏は、かつて、法隆寺日記等、お寺側の記録に夢殿開扉の記録が全く見られないことから、「明治初年開扉説」をとり、フェノロサ、天心よりはるか前に、開扉確認がすでに行われていたのではないかとしていました。
その後の研究によって、明治初年説から転じて、「明治19年8月開扉またはそれ以降開扉説」の考えを示しています。
その詳細は、小学館編法隆寺刊「救世観音」1997年刊所収の「夢殿ご本尊救世観音について」に、論述されています。
高田良信氏は、開扉年代の検証にあたって、
・法隆寺に残された、折々の来訪者名の記録と、フェノロサ、天心の回想文が一致しないこと、
・明治19年8月に、初めて救世観音の法量が記され、宮内省等出張により検印札が貼られたという記録(法隆寺宝物古器物古文書目録)が残されていること。
・明治21年には、救世観音像開扉が間違いなく行われ、写真も撮られたという記録が残されていること。
などから、開扉は、明治17年ではなく、明治19年以降とみられるとし、
「以上の記録からして明治19年8月21日に夢殿本尊の検査が行なわれ、同21年6月、九鬼によって再び調査が行なわれて以来、たびたび附扉されるようになったと考えることが可能である。
フェノロサの『東洋美術史綱』や岡倉天心の『日本美術史』の中で述べる夢殿本尊を開いた感激の様子を伝える有名な事件の年時は、明治19年8月21日前後か、あるいは天心、フェノロサが九鬼図書頭に随行して調査した明治21年6月8日から13日の間とするのが妥当のように忠われる。」
と述べています。
【上原和氏〜明治19年5月7日に違いない】
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上原和氏
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第2番目は、上原和氏の考え方です。
上原和氏は、玉虫厨子の研究など、法隆寺研究の第一人者の美術史学者です。
自著「大和古寺幻想」(1999年講談社刊)のなかで、夢殿本尊開扉年代の考え方を明らかにしています。
上原氏は、
「夢殿の本尊が開扉されたのは、まぎれもなくその(フェノロサ、天心の云う明治17年の)2年後の1868年(明治19年)5月7日のことであった。」
と述べて、明治19年5月説をとっています。
その根拠としては、
・明治17年の法隆寺訪問は、来山者名が、法隆寺側の記録と一致しないこと。
・フェノロサが、1898年執筆の寄稿論文に、夢殿秘仏開扉の年を、1886年(明治19年)と記述していること。
などをあげています。
〈明治19年5月の天心の手控え帳に残される、救世観音像のスケッチ〉
さらには、一番の決定的な根拠として、
岡倉天心の古社寺調査の手控えの小型ノート「奈良古社寺調査手録」の5月7日のページに、
「夢殿 秘仏観音 保存妙ナリ」
と書かれており、岡倉の手になる「救世観音像の正面前身のスケッチ」が残されている
ことを指摘しています。
この天心のメモとスケッチが、この時、救世観音像は初めて開扉された証拠であるとしているのです。
ご覧のとおりの、スケッチ図です。
岡倉天心「奈良古社寺調査手録」明治19年4月〜6月に作成したもの 5月7日のページに救世観音像のスケッチが描かれている
「奈良古社寺調査手録」は、「岡倉天心全集・第8巻」(1981年平凡社刊)に収録されており、救世観音のスケッチ図も載せられています。
この「奈良古社寺調査手録」に残された記録、スケッチは、明治19年5月には、間違いなく救世観音像は開扉されていたという、決定的証拠です。
即ち、フェノロサ、天心によって救世観音が開扉されたのは、明治19年5月のことか、その2年前の明治17年8月に開扉され、再度、明治19年に開扉されたか、いずれかということになります。
上原和氏は、総合的な検証判断として、明治19年開扉説を主張しています。
〈明治21年説は、成立し得ず〉
この事実によって、明治21年(1888)開扉説は、成立しないことが、明らかになりました。
上野直昭氏が聞いたという、九鬼隆一が夢殿開扉に立ち会ったという話は、作り話であったようです。
先にもふれましたが、九鬼隆一が開扉に立ち会えたとすると、それは、渡米から戻った後の明治21年のこととしか考えられないからです。
〈狩野芳崖も、明治19年5月に救世観音像をスケッチ〉
上原氏の「奈良古社寺調査手録」についての指摘を読んで、気が付いたのですが、この時、明治19年5月に、狩野芳崖も救世観音像のスケッチ図を残しているのです。
ご存じのとおり、狩野芳崖は悲母観音像で有名な、狩野派の絵師です。
狩野芳崖は、明治19年のフェノロサ、天心等の宝物調査に同行し「奈良官遊地取」と題するスケッチ録を描きました。
この「奈良官遊地取」のスケッチのなかにも、狩野芳崖による救世観音像の側面図が描かれているのです。
狩野芳崖「奈良官遊地取」(明治19年)に収録されている救世観音の側面図
「奈良官遊地取」は、現在東京芸術大学に所蔵されています。
これまた、明治19年に救世観音像が開扉されていた証拠となるものです。
【吉田千鶴子氏〜やはり明治17年8月】
第3番目は、吉田千鶴子氏の考え方です。
吉田氏は、自著
「<日本美術>の発見〜岡倉天心がめざしたもの」(2011年吉川弘文館刊)>
で、明治17年開扉説を主張しています。
フェノロサ、岡倉天心の回想文のとおりの開扉年代と考えられるということです。
吉田千鶴子氏は、このような見方をしています。
・天心自身が東京美術学校の講義時に「明治17年の頃」と明言しており、天心本人が「一生の最快事」に遭遇した年を忘れるはずがない。
天心が美術学校で講義したのは、明治23年(1890)から3年間で、明治17年から6〜7年しかたっておらず、複数の講義筆記録は、明治17年と明記されている。
・明治19年に、救世観音像を観たのは、狩野芳崖が描いたスケッチがあり間違いないが、この時の同行者は、天心、フェノロサ、芳崖、藤田文蔵(奈良で加納鉄哉が加わる)であって、天心、フェノロサが述べている顔ぶれとは違う。
・明治19年5月の「奈良古社寺調査手録」には、単に「秘仏観音 保存妙ナリ」とだけ記しているだけで、この時、救世観音に初対面し、「一生の最快事」という程感激したのであれば、手録の簡単すぎる記述は奇異ではないだろうか。
以上のようなことから、開扉年代に異説がいくつかあるけれども、
「それはやはり明治17年(1884)だったのだろう。」
との考えを述べています。
長々と、
「夢殿・救世観音像の開扉、発見年代は、本当はいつだったのか?」
というテーマについて、綴ってきました。
こうして見てみると、明治初年開扉説の可能性は薄く、明治21年開扉説は完全に否定されています。
開扉年は、明治17年か明治19年のいずれかということになるのでしょうが、最終的にはなかなか決着がつくという訳にはいかないようです。
議論はいろいろあるが、結局のところは、フェノロサ、天心が自ら語っている、明治17年のことであった可能性も相当に大きいようです。
いずれにしても、「違ってもたった2年間」ということになりますので、大勢に何ら影響もなく、
「取るに足らぬ、子細なこと」
と云ってしまえば、その通りということです。
細かいことに、こだわり過ぎてしまったようです。
ただ、救世観音像の本当の開扉年代について、これだけ論じる人が多くいるというのも、救世観音像の開扉が、近代仏教美術史上の歴史的発見、記念碑的発見として、大きく受け止められている証左と云えるのかもしれません。
【2017.4.8】
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