(1)東国の運慶の大発見
〜浄楽寺・願成就院諸像が運慶作と判明(昭和34年・1959)
大正時代の円成寺・大日如来像の発見から30余年、戦後の昭和30年代に至って、運慶作品の大発見がありました。
「運慶作品研究史上、最大の発見」
と誰もが認める、驚きの大発見でした。
神奈川県三浦半島にある浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動・毘沙門天像と、静岡県伊豆にある願成就院の阿弥陀像、不像三尊像、毘沙門天像が、正真正銘の運慶作品であることが、明らかになったのでした。
今では、誰もが常識のように感じている「東国の運慶作品」ですが、当時は、衝撃の運慶作品発見でありました。
これまで、これらの諸像は、運慶作品の可能性が考えられなかったのでしょうか?
両寺ともに鎌倉時代の仏像ではあるのですが、一言でいうと、
・浄楽寺の諸像は、全くのノーマーク、運慶作などというのは、想定外、論外。
・願成就院の諸像は、かつてこの寺で運慶作の諸像が造られたのは事実だが、現存像は当初のものではなく、運慶作ではない。
このように、考えられていたのです。
【運慶作銘札は残るが、「仏像は運慶にあらず」とされた願成就院諸像】
これら東国の運慶発見物語に入る前に、願成就院の諸像と運慶に係る話を、ちょっと先にふれておきたいと思います。
伊豆の願成就院には、古来、有名な2枚の銘札が伝わっていました。
願成就院に伝来した2枚の五輪塔形銘札〜(左)表面、(右)運慶の名が記された裏面
五輪塔形の銘札で、表面には種字と宝筐院陀羅尼が書かれ、裏面には、
「文治2年(1186)に平時政(北条時政)が檀越になり、巧師勾当運慶が造った」
旨の墨書が記されているのです。
この2枚の銘札は、江戸時代、宝暦2年(1752)の修理の時に、不動、毘沙門天像の体内から出てきたものと伝えられるものです。
吾妻鏡にも
「北条時政が奥州藤原氏討伐を祈願して、文治5年(1189)願成就院を建立し、阿弥陀三尊、不動毘沙門像を安置した。」
と記されています。
伝来銘札が納入されていたと伝える毘沙門天像
そういう話であれば、不動、毘沙門の両像は、運慶作ではないかとみられそうなのですが、そのようには考えられませんでした。
取り出された「銘札は、間違いなく本物」だけれども、「不動、毘沙門像は後世の作で運慶作品ではない」
このように判断されたのでした。
本尊の阿弥陀像の方は、当初のものではないかと思われた時もありましたが、その後、同じく運慶作品ではないと考えられていました。
即ち、
北条時政の発願で、運慶が願成就院の諸仏を制作したということは、間違いのない事実なのだけれども、それらの運慶作品は焼亡等により失われてしまい、現存像は当初のものと別物だ
と、みられていたということです。
【「都らしからぬ様子」が、運慶作と云い難いとされた、願成就院・阿弥陀如来像】
大正〜昭和初期に刊行された日本国宝全集の、第2巻と第55巻をみると、願成就院像について、このように解説されています。
大正12年(1924)刊の第2巻は、願成就院の仏像ではなく「塔婆銘札」だけを採り上げ、この銘札が運慶造像の事実を示す重要な歴史史料であることを解説したうえで、
「両像(不動毘沙門像)は爾後、不幸にして全く壊滅に委し、銘札二枚も其帰すべき所を失ったが、造像銘記としての価値は秋毫も動かない。」
「前に揚げた阿弥陀三尊のうち、中尊だけは今に遺存し、其勁健な手法に運慶其人の作たるを思わしめる。」
この巻では、願成就院の仏像そのもの採り上げているのではありませんが、本尊・阿弥陀如来像だけは、当初像で、運慶作とみていたようです。
願成就院・阿弥陀如来像
ところが、昭和8年(1933)刊の第55巻では、阿弥陀如来像を鎌倉期の早い頃の制作としながらも、このように述べて、運慶作品ではないと断じています。
「とはいへ、この像を本寺所蔵の造像銘札に事よせて運慶の作に擬することは早計なるべく、寧ろ彼の像とせられてゐる、かの円成寺大日如来や、興福寺北円堂弥勅像などと較べて、何処となく都らしからぬ様子、特異な手法等が看取せられて、彼の作と言ひ難いものがある。」
これをみると、願成就院・阿弥陀如来像は、大正時代には運慶作の可能性のあるとみられていたものが、円成寺・大日如来像が、大正11年(1923)に運慶作であることが発見されると、運慶作品であることが、はっきりと否定されたことが判ります。
なんと、円成寺・大日如来像の発見が、かえって災いするという、いわく云い難い話となったのです。
願成就院阿弥陀像は、逞しく肥満して、重量感あふれる体躯、激しく流動する衣文線が眼を惹く、躍動感あふれる造形です。
運慶の青年期の作品、円成寺・大日如来像の藤原風を残す造形と、熟年期の作品、興福寺北円堂・弥勒仏像の体躯の肉付けを押さえた穏やかな渋めの造形を、頭に浮かべた場合、
その間に、願成就院・阿弥陀像のような、肥満し躍動感、荒々しさのある造形が割り込んでくるというのは、考えられない、想定できないことであったのだと思われます。
まさに、
「都らしからぬ様子、特異な手法等が看取せられて、彼の作と言ひ難いものがある。」
という解説に象徴されるように見られ、
「願成就院蔵は、運慶作品ではあり得ない」
という見方が定着していったのだと思います。
さらには、阿弥陀像は、両眼、鼻が、破損によって江戸時代に大きく改変されているのですが、そのことが当時は知られていなかったことも、運慶作を否定する要素になっていたこともあるようです。
(X線調査により、当初は玉眼像であったのが、改変されていることが明らかになりました。)
【昭和54年(1959)、浄楽寺諸像が運慶作であると判明〜久野健氏等の調査による大発見】
それではいよいよ、東国の運慶発見物語を振り返ってみたいと思います。
それは、昭和34年(1959)4月のことでした。
神奈川県横須賀市芦名に在る、浄楽寺に遺された諸像が、正真正銘の運慶作であることが発見されたのでした。
横須賀市芦名の浄楽寺〜(下)諸像が安置されていた本堂
この大発見の主役は、当時、東京国立文化財研究所に在籍した、久野健氏でした。
日本仏教彫刻史の研究者として、あまりにも有名な仁ですので、よくご存じのことと思います。
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久野健氏
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久野氏は、三浦氏の子孫という老人から三浦半島の仏像調査を依頼され、この依頼に応えて、まずは芦名・浄楽寺の仏像調査に出かけることになったのでした。
この時、久野氏自身も、浄楽寺の諸像が運慶作品かも知れないなどということは、想像すらしていなかったようです。
ところが、瓢箪から駒というのは言い過ぎかもしれませんが、調査の結果、毘沙門天像の胎内から、運慶作を示す銘札が見つかるなどの大発見になったのでした。
この東国の運慶作品の大発見は、久野健氏の仏教彫刻史研究人生にとっても、忘れることのできない思い出になったことだと思います。
久野氏は、この大発見のいきさつや思い出を、翌年、芸術新潮誌に綴っています。
「発見された運慶」久野健 芸術新潮 1960年6月号 所載
その後、若干の内容改訂をして、単行本、
「仏像」久野健著 1961年 学生社刊
に「運慶の発見」と改題して収録されています。
久野健著「仏像」と(右)「運慶の発見」の章
この文章を読むと、久野氏が、東国の運慶作仏像を発見したときの、驚き、興奮、喜びが、活き活きと語られています。
その時の有様が手に取るようで、私も、学生時代にこの発見物語を読んだとき、大変興味深く、興奮してページをめくったことを今も覚えています。
【驚きの浄楽寺諸像発見物語〜体内から運慶作銘札他を新発見】
この久野氏の文章を、たどっていくことで、発見物語を振り返ってみましょう。
浄楽寺には、阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像の5体の古仏像が遺されています。
阿弥陀三尊像は、鎌倉時代の作として大正15年(1925)に国宝(旧国宝)に指定されています。
浄楽寺についてこれまで知られていることは、
文治5年(1189)和田義盛建立の七阿弥陀堂の一つであるという由緒と、
鎌倉勝長寿院の一部を和田義盛が移したという二種の由緒があることと、
阿弥陀像の体内には、後世に「運慶作」と書かれた木札が納められているが、全く信用できるものではない
というものでした。
久野健氏は、同じ国立文化財研究所第一研究室長の熊谷宜夫氏、同猪川和子氏と、女子美術大学の永井信氏と共に、調査に赴きました。
阿弥陀三尊像は全身に後世の金箔がおかれて、彫刻としての強さを損じており、毘沙門天像、不動明王像は、江戸時代のどぎつい彩色で覆われ、まだらに剥落しているなど、大きく鑑賞を妨げるものになっていました。
近世の彩色で覆われた、調査当時の浄楽寺・毘沙門天像
そうした鑑賞環境の悪い中でしたが、諸像をよく観ると、皆、鎌倉前期の制作であろうと伺えるものでした。
久野氏は、阿弥陀如来像は、
「興福寺南円堂の(康慶作)不空羂索観音像に近い作風を示している」
毘沙門天像は、
「一見した時、直ちに湛慶作の毘沙門天像を連想した」
と感じたということです。
これは鎌倉期の慶派の出来の良い仏像に違いないと、一層の調査を進めるべく仏像精査をしていると、毘沙門天像の頚が、矧ぎ目で抜けることが判りました。
住職の承諾の下、頚を抜いた処、胎内に納入物が納められていたのでした。
その時の有様は、このように綴られています。
「私は、(毘沙門天像の)頭部を、住職に渡している間に背の高いN氏は、胎内をのぞき込み、
『なかに何か入ってますよ』
という。
『出してみてくれないか』
私の答えとほとんど同時に、N氏が胎内から取り出したのは、杓子状の木札であった。
私はそれを窓際に持っていって見た。
これは円形の月輪の下に蓮華座を墨書し、その下に長い蓮茎のついた形のもので、
・・・・・・・・・・・・・
木札の裏側には、次のような文字が書かれている。
毘沙門天像体内から取り出された銘札と運慶作と記された墨書
この木札の文字は、文治5年3月20日に、平義盛(和田義盛)と小野氏が願主となり、大仏師興福寺内相応院勾当運慶が小仏師10人をつかい作ったのである・・・・という意味であろう。
『これはすごいものが出てきた』
思わずもらした私の声に、一行は、みな窓ぎわに集り、文字をのぞき込んだ。
運慶の偽銘は多いが、私は直感的にこの銘札は後世のものではなく、文治5年当初のものだというふうに感じた。」
これが、運慶作の銘札発見の瞬間でした。
しかし、この銘札発見だけで、運慶作と断定することはできません。
先にご紹介したように、願成就院にも、全く同様の銘札が残されていますが、仏像は運慶作ではないとされているのです。
そのほかの像も精査すると、阿弥陀如来像の頚も抜くことが出来ることが判りました。
頚を抜くと、阿弥陀像の胎内にも夥しい数の納入物が納められていました。
納入物は、以前から知られていた、後世の筆で運慶作と書かれた銘札や江戸時代のいくつもの修理銘札等でした。
納入物には、鎌倉期のものは見つからなかったのですが、阿弥陀像の胎内に墨書が残されているのが見つかりました。
懐中電灯で、胎内を照らすと、背面に宝筐院陀羅尼の文字や梵字がきっしりと墨書されているのが、発見されたのでした。
そして、同行した熊谷宜夫氏の書体鑑定によれば、毘沙門天像納入の銘札の墨書は、鎌倉時代、文治当初のものとみてよく、阿弥陀像胎内の墨書もそれと同筆らしいということです。
頚を抜いた阿弥陀如来像の体内に書かれた宝筐院陀羅尼、梵字、(右)胎内墨書の合成写真
運慶作と記された銘札が当初のもので、阿弥陀像の胎内墨書が同筆となれば、阿弥陀三尊像、毘沙門天像共に、「文治5年(1189)に制作されたと運慶作像」と考えて、間違いありません。
また不動明王像も、その作風から一具で、運慶作とみられるものでした。
「浄楽寺諸像が運慶作である。」
という大発見は、このように、予期せぬ出来事として成し遂げられたのでした。
この時、不動明王像の頚は打ち付けられて抜くことが出来ませんでしたが、後のX線透過撮影調査により、毘沙門像と同形の銘札が納入されていることが判り、
また昭和45年(1970)の修理の際に銘札が取り出され、毘沙門像銘札全く同文であることが判明しました。
浄楽寺・不動明王像と、修理時(1970年)に体内から取り出された運慶銘の銘札
附けたりですが、毘沙門天像、不動明王像の江戸時代の劣悪な彩色は、昭和51〜2年(1976〜7)に美術院国宝修理所で保存修理された際に取り除かれ、古色付けの現在の姿となり、運慶の造形表現がはっきりと伺えるようになりました。
【久野健氏、願成就院諸像も同じく運慶作と認定】
浄楽寺の諸像が運慶作であるということが発見されると、すぐに思い浮かんでくるのが、伊豆の願成就院の諸像です。
願成就院に遺されている、文治2年(1186)の運慶作銘の銘札は、浄楽寺から発見された銘札と、書式も類似しているのです。
浄楽寺銘札には「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」と書かれていましたが、
願成就院の銘札には「巧師勾当運慶」と書かれています。
久野氏等は、浄楽寺調査の後、早速、伊豆韮山の願成就院に赴き、諸像の調査へ赴きました。
伊豆韮山願成就院・山門と、運慶作諸像が祀られる本堂
願成就院には、阿弥陀如来像、不動三尊像、毘沙門天像が遺されていますが、先にご紹介したように、江戸時代、不動、毘沙門像から取り出されたという二枚の運慶作銘札だけが本物で、仏像は、全て運慶作ではないとされてきています。
銘札と阿弥陀如来像は、大正8年(1920)に国宝(旧国宝)に指定されていますが、不動、毘沙門像は無指定となっていました。
願成就院・不動三尊像
願成就院諸像を再調査した久野氏は、その体躯やプロポーションをみると、浄楽寺諸像と大変似通ったものであることを確認しました。
阿弥陀像の肥満した体躯、皺数が多く彫りが深い複雑な衣文をはじめ、毘沙門像、不動像にも多くの共通点が見いだされ、同じ仏師の手になるものと確信されました。
また、各像のサイズも、阿弥陀像の像高が140p程度、毘沙門像が140p内外、不動明王像が140センチ弱と、これまた酷似したものであったのです。
この調査の時には、浄楽寺調査の時のように、仏像の頚を抜いて諸像の胎内をみることはできませんでしたが、
久野氏は、
願成就院の諸像は、浄楽寺像との作風の類似点、像のサイズ、銘札の内容等から、全て、遺された銘札と同じ時期、文治2年(1186)に制作された、運慶作そのものである
と、判断したのでした。
【「都らしからぬ様子」は、東国武士の気風を反映したものか?】
そして、かつて日本国宝全集の解説者が、
「都らしからぬ様子、特異な手法等が看取せられて、彼(運慶)の作と言ひ難いものがある。」
と運慶作を否定したことについて、久野氏は、このような考えを綴っています。
「安元2年の円成寺の大日と文治2年の願成就院の阿弥陀像との違いは、運慶の成長であると同時に、時代の成長でもあろう。
安元から文治までは、ただの平穏な時代ではなかった。
まさに平家政権の末期で、源氏がこれに代る大混乱期にあたっている。
平重衝の兵火に、東大寺、興福寺が焼かれたのも、この間である。
興福寺と深いつながりのある運慶は、この動揺期を身をもってくぐりぬけてきた一人であったに違いないのである。
大日如来像にくらべ、この阿弥陀如来像が、かけはなれたものに見えるのも、またそうしたことによるところが多いのではないだろうか。
また、もう一つには願成就院や浄楽寺像の『都らしからぬ様子』というのは、東国の武士である北条時政や、和田義盛などの注文による造像という点もあると思う。
・・・・・・・・・・・・・
かかる東国武将の注文による造仏の場合、当然、運慶も彼らの好む豪放な像を刻むことに意をもちいたととはたしかであろう。
この努力が、『都らしからざる様子』の像となって現われてきたことは十分考えられる。」
久野健氏は、これらの調査結果と見解を
「美術研究」誌 (「浄楽寺の仏像と運慶」美術研究204号1960.03)
に発表しました。
東国の運慶の大発見に、大きな驚きと反響を呼んだことは、想像に難くありません。
浄楽寺、願成就院諸像が運慶作品であることに異を唱える声はなく、運慶作の基準作例として、定着していくこととなりました。
【願成就院、浄楽寺諸像により、空白期の運慶作風が判明〜驚きの作風大変革】
願成就院諸像、浄楽寺諸像が運慶作であることが判明したことは、単に運慶作品の発見ということだけではなく、運慶作品空白期の作風が判明し、それが大きく変革していたことが明らかになったという大発見でもありました。
文治2年〜文治5年(1186〜9)と云えば、運慶30歳代後半、脂の乗り切ったころということになります。
これまで明らかであった運慶作品は、円成寺・大日像、東大寺南大門・仁王像、興福寺北円堂・諸像で、運慶30歳代の作例は見当たらず、空白期ともいえました。
この新発見は、運慶30歳代といえる作品が発見されたことになり、この時期の運慶の作風が明らかになったのです。
円成寺像の落ち着いた穏やかさから、はっきりと一線を画し、重量感、躍動感あるダイナミックな造形に、大変革していたのでした。
また、東国における運慶の作風という新たな側面を考えさせることにもなりました。
このことこそが、
「願成就院、浄楽寺諸像の運慶作判明が、衝撃的な意味を持つ大発見であった」
といえることなのだと思います。
【願成就院諸像、後の調査修理で、確実な運慶作品と立証される】
願成就院諸像の、その後の調査によって判明した、新事実についても、ここでふれておきたいと思います。
久野氏が、浄楽寺、願成就院を調査したのは、昭和34年(1959)のことでしたが、昭和38年には願成就院諸像の]線透過調査が行われました。
その結果、不動明王像の脇侍である、制タ迦、金羯羅二童子像の胎内にも、不動毘沙門像から出たと伝えられる銘札と同形の塔婆形木札が納入されていることが判りました。
金羯羅童子のX線透過写真(塔婆型銘札が見える)
また、不動明王の胎内に、整然とした4つの釘あとが認められ、現在外に出ている銘札が、そこに止められていたものと推定されました。
これらの調査結果は、諸像が運慶作であることを、強く裏付けるものとなりました。
そして、昭和52年(1980)に、制タ迦、金羯羅二童子像の解体修理が行われた際、二童子の胎内から、納入銘札が取り出されました。
そこに書かれた墨書銘は、先に取り出されていた2枚の銘札と同文で、運慶の名が記されており、文治2年運慶作であることが確認されました。
解体修理時、納入物が確認された、制タ迦、金羯羅二童子像
制タ迦、金羯羅二童子像体内から取り出された銘札と、運慶作の墨書銘
この結果、願成就院諸像は、「正真正銘の運慶作」であることが、確定したことになったのです。
【2016.11.19】