【は じ め に】
明治以降に発見された、主な国宝重文級の仏像の、発見当時のいきさつなどをたどる物語を
「近代
『仏像発見物語』
を
たどって」
と題して、掲載させていただくことにしました。
明治以降の、「驚きの仏像発見」というと、どんな発見物語が思い浮かぶでしょうか?
皆さん、
「仏像大発見・ベスト3は何でしょうか?」
と問われると、どんな仏像の発見を挙げられるのでしょう。
NO1は、文句なしに、法隆寺夢殿の絶対秘仏、救世観音の開扉でしょう。
明治17年(1984)、岡倉天心、フェノロサらが、寺僧の抵抗を突破して強引に開扉した話は、あまりにも有名です。
NO2は、興福寺の山田寺旧仏の金銅仏頭の発見でしょう。
NO3となると、ちょっと難しい処です。
和歌山・慈尊院の弥勒仏像の発見(1960)でしょうか?
東寺・御影堂の絶対秘仏、不動明王像の発見調査(1954)でしょうか?
それとも、浄楽寺、願成就院諸像が運慶作であることが明らかになった、東国の運慶の発見(1959)でしょうか?
この辺が、第3位に入ってくるのでなないかなと思うのですが、如何でしょうか?
「私のベストスリーは、これとは違う」
という方もいらっしゃるのかもしれません。
国宝級の仏像の発見物語というのは、発見当時のいきさつをたどってみると、大変興味深く、ノンフィクションのドキュメント本を読んでいるように、心躍る気持ちになってしまいます。
理屈抜きに、知的興味をそそる話ばかりで、大変面白いものばかりです。
また、これらの仏像の発見は、仏像好きの蘊蓄話というばかりではなく、それまでの仏教美術史の考え方や様式展開論に、新たな問題を提起したり、定説を覆したりすることも多々あり、これまた興味津々と云えるものです。
そんな重要な仏像発見を、いくつか振り返ってみましょう。
大正5年(1918)、野中寺の宝蔵から金銅・弥勒菩薩像が発見されました。
台座に「丙寅」(天智5年・666)の刻銘があったことから、飛鳥様式から白鳳様式への転換を象徴する造形表現の基準作例として、飛鳥白鳳彫刻史上、重要な位置づけにある仏像として、語られるようになりました。
また当時、半跏思惟像が弥勒菩薩として造像されていたことを証することになりました。
昭和12年(1937)、興福寺東金堂本尊台座内から、金銅・仏頭が発見されました。
天武14年(685)に旧山田寺で制作された仏像でした。
白鳳彫刻の仏像を代表する基準作例の大発見となり、薬師寺金堂・薬師三尊像が藤原京からの移座か、非移座・新鋳かという、今も尽きない制作年代大論争に大きな影響を与えることになりました。
昭和29年(1958)、奈良博に出展された、岩手黒石寺・薬師如来像は、体内墨書などから貞観4年(862)の制作であることが判明しました。
最果てみちのくの奥地で、なんと平安初期に遡る仏像が制作されていたという世の常識を覆す、大発見となりました。
この発見を契機に、古代の地方仏研究が、大きく進展していくことになりました。
昭和34年(1959)、納入銘札の新発見などから、浄楽寺の諸像、願成就院の諸像が、運慶作品であることが判明、「東国の運慶の大発見」となりました。
従来考えられていた運慶仏像の造形表現からは大変革した、躍動感あるダイナミックな造形で、運慶の作風認識の大転換を迫る、衝撃的発見となりました。
その後の運慶作品の発見、運慶の事績、作風の研究に多大な影響を与えるものとなりました。
振り返ってみると、こうした仏像発見が、仏像彫刻史の世界に驚くほどの衝撃を与えるものであったことを、今更ながらに感じさせます。
そんな仏像発見物語の面白さ、興味深さもあって、私の関心のある「仏像発見物語」を、ご紹介してみようと思ったわけです。
実は、ブログ「観仏日々帖」に、これまで折々、面白そうな「仏像発見物語」をご紹介してきました。
書き連ねていると、随分な数になるもので、数えてみると10篇余にもなりました。
今回の「近代『仏像発見物語』をたどって」では、明治以降の主なる仏像発見物語を振り返るということで、これら10篇余の旧稿を再掲させていただくとともに、
書き下ろしの新稿
「運慶仏発見物語」「法隆寺夢殿・救世観音発見物語」
を加えて、連載とさせていただくこととしました。
新稿、旧稿をひとまとめに掲載することによって、近代の主要な仏像発見物語は、ほぼ一通りご紹介できるのではないかと思います。
(快慶仏発見物語が抜けているのですが、これは私には歯が立ちそうにありませんので、ご容赦ください)
まずは、「運慶仏発見物語」から、スタートさせていただきます。
ちょっとマニアックなテーマではありますが、お愉しみいただき、お役に立てば何よりです。
【2016.9.30】
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