[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
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【第7回〜7/7〜】

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6.「四十八体仏」と太子信仰


(1)当時の法隆寺の状況


@当時の人々にとって小金銅仏を造像する動機、目的はおよそ次のようなものであろう。

イ.病気平癒や、死者の冥福を祈るための寄進
・野中寺弥勒半跏像は前者
・釈迦三尊や165辛亥銘像、156丙寅銘像は後者

ロ.自身の利益や往生のための念持仏
144山田殿銘阿弥陀三尊はこれか
そして、持ち主の逝去により遺族が寺へ寄進するケースも多かったものと思われる。
・例えば、光明皇后による橘夫人念持仏の寄進など


A第3章(献納「四十八体仏」の概要)でみたように、法隆寺には過去橘寺伝来のものも含め、多くの寄進により100体以上の小金銅仏があったといわれているが、これは他の寺院と比べても突出して多かったものと思われる。

では、何故法隆寺にこのような集積があったのであろうか。考えられるのはおそらく太子信仰との関係であろう。


Bこの点は当時の法隆寺の置かれた状況とも関連するので少しみていくこととしたい。

創建法隆寺が670年に全焼した後の天武代になって、「国の大寺への関与と私寺に対する制限」が打ち出され、官寺でない法隆寺に対しても序列の格下げや食封の一部停止などの措置がとられ、再建もままならない中いわば「泣きっ面に蜂」状態となったことは容易に想像される。

当時の官寺は、
(1)天智発願の川原寺、
(2)舒明発願の大官大寺(高市大寺)、
(3)天武発願の薬師寺、
の三寺に
(4)飛鳥寺が推古発願を運動?して入り込み、
四大寺とされたようであるが、存亡の危機を迎えた法隆寺が起死回生策として用明発願を打ち出し再建を図ろうとしたとのストーリーは、金堂薬師銘文追刻をめぐる研究者(大西修也氏ら)の論稿に詳しい。


Cこれにより復興のきっかけをつかんだ法隆寺は、同時に太子信仰の寺へと切り替えを進め、再建金堂に釈迦三尊、薬師三尊、救世観音(*)などの太子ゆかりの仏像を集めるとともに、縁起面でも太子の経典(勝鬘経、法華経)講説やカリスマ伝説を強調し、これらが後に続く太子信仰の隆盛に繋がっていくことになる。

(*)夢殿の救世観音はこの時期金堂に安置されていた。

寺の関係者の生き残りをかけた涙ぐましい努力の賜物と思われるが、勿論、その過程での権力者(おそらくは持統天皇ら)の支援抜きには考えられないことは確かであろう。



(2)太子信仰と仏像


@「四十八体仏」に7C後半白鳳期のものが多いことは当時が金銅仏の最盛期であったことを物語るが、これらが法隆寺に集中して残されているのは太子信仰や(後述の)法華経信仰などが大きな役割を果たしたのではないかと考えられる。


A「四十八体仏」をあらためて見直してみると、まず半跏像であるが、「四十八体仏」以外に現存する半跏像としては、広隆寺、中宮寺、四天王寺、野中寺、岡寺などがある。

    

広隆寺・菩薩半跏像              中宮寺・菩薩半跏像


    

四天王寺・菩薩半跏像             野中寺・菩薩半跏像



前三者はいうまでもなく太子ゆかりの寺であり野中寺もその一つ(*)と思われるので、数の上では圧倒的に法隆寺系寺院に集中している感がある。

(*)野中寺像銘文に「栢寺の知識……」とあるが、この「栢寺」は橘寺のことともいわれている。

半跏像は当初新羅で流行した弥勒信仰を継承する形で受容された可能性が強いが、それが「(悉達)太子思惟像=(厩戸)太子信仰」と重なっていったことは充分に考えられる。


Bまた、童子形像も、みてきたように「四十八体仏」に数多く、他には法隆寺六観音、金堂薬師如来脇侍と伝えられる像、天蓋の飛天、奈良金龍寺の菩薩立像等にみられ、このうち出自が不確かな金龍寺像を除けばやはり法隆寺に集中している。
(野中寺像や橘夫人念持仏もこの系統に属する。)

この種菩薩像では短い裳から足首を出す像が多く、想像をたくましくすれば誕生仏から成長した太子をイメ−ジしたものか。

    

法隆寺・六観音立像                法隆寺金堂・天蓋飛天像



Cインド風の像もこれに加えてもよいかもしれない。

186187菩薩立像はみるからに悉達太子像であり、163164半跏像もともに太子思惟像であり、一連の太子をイメージして造られた(寄進された)可能性もあろう。

    

左【186号】菩薩立像           右【163号】菩薩半跏像
(東京国立博物館:所蔵画像)



D「四十八体仏」以外でみても、太子信仰は「釈迦信仰」、更に「観音信仰」へと広がる素地を残していたものと思われ、その仕掛けともいうべきものが釈迦三尊の銘文や救世観音の伝承であったのではないか。

即ち、釈迦三尊の銘文にある「尺寸王身」の記述や、救世観音の「上宮王等身観世音菩薩」の記録(761年『法隆寺東院資材帳』)である。
両像とも意味するところはいわば「太子の写し身」であることを示唆するもので、(あくまで私見であるが)やや出来すぎ?の感なきにしもあらず。

中でも、救世観音の伝承はともかく、釈迦三尊の造立(623年)当時より「釈迦=太子」の思想があったかどうかについてはやや疑問も残る。
釈迦三尊の623年造立自体に疑問を持つものではないが、銘文については法隆寺の再建との関連でもう少し幅広く考える余地があってもよいのではないかと思ったりしているところ。



(3)太子信仰と女性


@法隆寺への金銅仏流入のもう一つの側面として、信仰面から特に法華経との関連に注目したい。

法隆寺が再出発しようとしていた時期に、「太子による『勝鬘経』、『法華経』の講説」伝承(*)が大きな役割を果たしたものと思われる。

(*)『日本書紀』606年の記載。
なお、『日本書紀』は養老4年(720年)の完成。


「勝鬘経」はインドの王の娘勝鬘夫人が説法する経典であり、「法華経薬王菩薩本事品」にはよく知られている通り女人往生思想が説かれているもの。
これら伝承により太子の女人往生の理解者としてのイメ−ジが形づくられ、当時の女性貴族(人)の信仰を一心に集めたのではないであろうか。

事実、再建支援に主導的役割を果たしたかと思われる持統天皇や橘三千代、のちにはその娘光明皇后らの存在である。
考えてみれば、金堂釈迦三尊の銘文にも(太子の母太后も含め)太子とその后の浄土往生を願うことが記されているので、これらも法隆寺が女人往生を説く「法華経信仰の寺」であることを強調する根拠の一つとしてアピールされたことも想像される。


A太子信仰と女性との関連を示す傍証とも思われるのが太子建立七ケ寺の存在である。

七ケ寺とは、法隆寺の他に四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺、葛木寺(葛城寺)の六ケ寺。

いずれも太子建立といわれているが実際は太子ゆかりの氏族によって建てられ太子信仰の一翼を担っていく寺で、このうち中宮寺、橘寺、池後寺、葛木寺は尼寺であった。
熱心な太子信仰者の傍らで、周辺にそれを広める女性の存在も見え隠れするように思われる。


B「四十八体仏」との関連でも「法華経」は注目される。

「法華経方便品」に
「入滅した仏への供養として、造塔や、銅、真鍮、鉛、鉄、粘土等での造仏等の善行を成した者に成道を約束する」
ことが説かれていることである。

当時、特に貴重な金属での造仏、寄進は大いなる善行、功徳を積む行為として奨励され、これが直接に間接に法隆寺への金銅仏の集積に繋がったということもいえるのかもしれない。



7.おわりに


@ここまで法隆寺献納宝物の通称「四十八体仏」をテーマに、日本の仏教受容期である6C末〜8C初、美術史的にいえば飛鳥・白鳳期の多種多様な小金銅仏をみてきた。


Aこの時期は、中国では南北朝から隋、唐による統一国家の実現、朝鮮半島では三国鼎立から(当時親密関係にあった)百済の滅亡と新羅による統一、日本もその過程で唐・新羅連合軍との白村江の戦い(663年)に巻き込まれるなど、めまぐるしい国際情勢の変化があった時代で、政治・経済面のみならず文化面でも各国の諸様式が断続的、重層的に流入してきた時期に当る。


B当時の日本は、大陸の統治制度や仏教思想、先進技術等を懸命に消化吸収している途上にあり、(創建)法隆寺の建立はその早い時期の思想的、文化的成果の一つでもあった筈だが、670年伽藍の全焼により法隆寺は絶体絶命の危機に陥ることになる。


C(のちの明治の困窮をも連想させるが)この危機的状況を巧みな広報戦略や権力者の後援で見事に復活を遂げることになるが、当時寺が指向してきた太子信仰と法華経信仰がこれに大きな役割を果たしてきたであろうことは既述の通りである。


Dその後、約1300年間、数ある寺院の中で大きな火災にあわなかったのは法隆寺だけで、むしろ他寺の宝物の受け皿ともなってきた。

明治維新後の財政危機で一部献納のやむなきに至ったものの、二度の大危機を乗り越え貴重な文化財を今日に伝えてきたことは奇跡といっても過言ではなく、まさに「文化財は建物あってこそ残る」ことを実感させられるところである。


Eあらためていうまでもないが、献納「四十八体仏」は我が国仏教黎明期の信仰形態や仏像の時代的、様式的変遷を大陸との関係にも照らしながら検証できる、まさに超一級のコレクションである。

同時に、これらを苦心して造った人達、あるいは、すがるような思いで日夜拝してきた人々の深い祈りにも想いを馳せつつ、拙論の締め括りとしたい。


(了)


 



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