[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
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【第4回〜4/7〜】

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(4)半跏像


@渡来系の中に158156(丙寅銘)、止利系に155の像がみられるように「四十八体仏」には10体もの半跏の像が含まれているので、ここでは一つのグループとして概観しておくこととしたい。

     

左【158号】菩薩半跏像           右【155号】菩薩半跏像
(東京国立博物館:所蔵画像)



A半跏という独特の姿をとる仏像は古くはガンダーラに起源をもち、その代表作として松岡美術館所蔵の菩薩半跏思惟像が有名であるが、その仏教的尊格は必ずしも明確ではない。

 

松岡美術館所蔵・菩薩半跏思惟像



B中国では、敦煌初期窟や雲岡、龍門石窟でもみられ、ほとんどが成道前の悉達太子思惟像として理解されている一方、これが朝鮮半島に入ると次第に弥勒菩薩として信仰され、6C後半〜7C半頃統一新羅で広く流行したことが知られている。


C日本でも広隆寺や中宮寺の像が代表作として今に伝えられており、広隆寺の像が一説に推古31年(623年)新羅より献上された像といわれ、前述の158156も6C後半〜7C初に渡来乃至渡来人によって造られた可能性が高いといわれるのもこの流れを受容していった経緯を物語るものであろう。

ただし、広隆寺や前述の野中寺像が弥勒として信仰されているように他の像も弥勒と結び付けて考えられるかという点についてはなお議論のあるところ。


D初期の半跏像に続く像としては、(止利系の155を別とすれば)少し時代が下がり、159160あたりであろうか。


E159は高めの台座に半跏して坐す童顔の像。三面頭飾を頂き体部や台座の各所が連珠文で装飾されるところなどをみると野中寺の半跏像(666年)に近い感じを受ける。

     

左【159号】菩薩半跏像 (東京国立博物館:所蔵画像)    右 野中寺・菩薩半跏像〜丙寅銘666年



野中寺像は銘文に弥勒像として造られたことが記されている貴重な像だが、この像も(銘文ではないが)それを感じさせる表現がある。
台座下部の須弥山を思わせる山岳文である。これが須弥山とすれば、おそらくは須弥山上方の兜率天に住む弥勒をあらわすものであろう。

この像をよく見ると、装飾的仕上げに加え、小金銅仏ながら背面の背筋まで表現されるなどかなり進んだ像容が感じられるので、時代的には野中寺より更に下り、7C後半〜8Cに近い作例ではないかと思われる。


F160159とよく似た像であるが、159を写したかのような像でやや形式化した感じも受ける。


Gその他の半跏像としては157161162163164があるが、このうち157は全体的に柔らかさ、バランスの良さが感じられ、これも7C後半の作か。

 

【157号】菩薩半跏像   (東京国立博物館:所蔵画像)



161162はやや異色の像で、特に161は体部や衣文にやや不自然さがみられ、後に誇張的に造られた像であろうか。(あるいは専門仏師でない鋳物師の手によるものか?)

なお、163164については「(6)インド風の像」の中で後述する。



(5)童子形の像


@7C後半、止利様の変容とともにあらわれた一群の童子形と呼ばれる金銅仏がある。

顔立ちや体型が文字通り幼児や子供のような像で、(この系統の像として)橘夫人念持仏を思い起こす人も多いと思うが、いわゆる白鳳期の特徴的仏像群を形成している。
「四十八体仏」の中でも6体ほどの像がこれに当る。

 

法隆寺・阿弥陀三尊像〜伝橘夫人念持仏



A典型作として、179188の菩薩立像、153の如来立像があげられよう。

 

【188号】菩薩立像  (東京国立博物館:所蔵画像)



ともに頭部が大きめで童顔短躯、愛らしい顔立ちで直立不動の姿勢をとり、(それまでの像と違って)短めの裳から足首を出しているのも特徴の一つ。
この両像がともに体部が空洞のない無垢の像となっているのは鋳造後に足元から内部の土を掻きだすのが技術的に難しかったためかもしれない。


B168176観音立像もこの系統の像と思われるが、瓔珞がより装飾的になり、童顔の目が二重瞼になっているのも他の像にみられない特色。
二重瞼の像としては、前記159童顔の菩薩半跏像や法隆寺金堂薬師如来脇侍(伝月光)とも共通する。


C童子形の像は「四十八体仏」以外にも法隆寺金堂天蓋の飛天、同六観音像や金龍寺菩薩立像などが知られているが、金堂の天蓋が物語るようにまさに法隆寺再建期の頃に盛行した像容であろう。

 

法隆寺金堂天蓋・飛天像


       

法隆寺・六観音像                    金龍寺・菩薩立像



Dこれらの造形はどこから来たものであろうか。

中国北周代や特に新羅に類似の像がみられることから源流を大陸に求める説があるが、日本の像にみる清純さ、あどけなさは独特の表現のように感じられる。
勿論影響は否定できないとしても、日本で独自に発展した可能性もあるのではないかと思われる。

また、この系統の像は(金龍寺像の来歴はよくわからないが)橘夫人念持仏も含め法隆寺に集中している感があるので太子信仰との関係を考えてみたいところ。(後述)



(6)インド風の像


@ここまで、中国南北朝や朝鮮半島の影響が色濃い像や、あるいは日本で独自に展開したかと思われる像をみてきたが、「四十八体仏」の中には、これに留まらず時代の流れとともに唐やインドの新しい風を感じさせる像が残されている。

ここではインド風としてグルーピングされる像をみていくこととしたい。

特徴として、インド風の服装や、厚めの唇、横に広い顔立ちの、みるからに南方風ともいうべき一群で、まずこのような異色の像が伝世されてきたことに驚かされる。


A186187菩薩立像がその典型で、その姿を見ると、ターバン状の頭髪をもち、下半身にドーティを着け裾をたくしあげる、まさにインド風俗そのままの像。

 

【186号】菩薩立像  (東京国立博物館:所蔵画像)



静かな立姿、立体表現で造形自体何の不自然さもないが、日本でも中国でもこれに類する像は見たことがない。多くの仏像を見てきた我々の目には「仏像らしくない仏像」というのであろうか。
同じく裾をたくしあげた像に189菩薩立像があるが、こちらの方は全体に硬さがみられ出来は今一歩の感。


B163164の菩薩半跏像も、肥満した体つきに厚い唇をもつ南方イメージの像。
ともによく似た重量感のある、ややふてぶてしい顔立ちの像で、おそらくは同じ仏師の作であろう。

 

【163号】菩薩半跏像  (東京国立博物館:所蔵画像)



Cこれに類似する顔つきの像が172観音立像で、この像は法隆寺金堂阿弥陀如来脇侍と伝えられる観音菩薩立像と形式、作風とも強い共通性を持つ。

       

【172号】菩薩立像 (東京国立博物館:所蔵画像)     法隆寺金堂・阿弥陀如来脇侍観音立像



ついでながら本(阿弥陀如来脇侍)像は、インド風の特徴の一つともいわれる連眉状の眉を有し、これは上記164菩薩半跏像や169観音立像とも共通するもの。

 

【169号】菩薩立像  (東京国立博物館:所蔵画像)



Dこれら南方イメージの像は「四十八体仏」の中でも比較的大ぶりの像ばかりであり、鋳造技法面でも体部を空洞にし像内に鉄心を残す点等共通性がみられるので、他とは一線を画したグループの像とみてよいものと思われる。


Eどういうルートで日本へ入ってきたか大変興味深いが、時代的には、一応唐代玄奘帰国(645年)後のインドブームの影響を受けた7C末近い頃の一群の造形と想定しておきたい。



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