[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
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【第3回〜3/7〜】

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5.「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察


法隆寺宝物館で「四十八体仏」を一つ一つ見ていくと、像の大きさ、形、様式等で、受ける印象を含め何となく似通った像があることが感じられる。

これに、金銅仏の場合、(調査により)共通の鋳造技法を持つ像が見受けられるので、これらを加味しいくつかのグループに分けて概観していくことがわかりやすいと思われる。

(注)現在、「四十八体仏」は東博により各々整理番号がつけられているので以下この番号で記述。
なお、グループ分けの手法は後記参考文献3(岩佐氏論稿)を参考にさせていただいたが、その分け方や内容はすべて当方の責による。



(1)渡来系の像


@ 前記の通り、日本の初期の仏像は大陸からもたらされた像であろう。
「四十八体仏」の中には海外から持ち込まれたのではないかと思われる像がいくつか含まれている。

渡来系と思われる像は一般に次に三体といわれている。 

  143  一光三尊像

  151  如来立像

  158  菩薩半跏像

以下順にみていきたい。

 

【143号】 一光三尊仏立像
(東京国立博物館:所蔵画像)


     

左【151号】如来立像     右【158号】菩薩半跏像
(東京国立博物館:所蔵画像)



A 143一光三尊像は、いわゆる善光寺式三尊(*)を思わせるイメージの像。

全体に柔らかい表現でまとまりがよく、中国南朝との交流が盛んであった百済からの伝来を思わせる。立像の三尊形式や中尊の渦巻き状の頭髪なども中国仏の影響を感じさせる。
造像面では裳裾と足元部分に特徴があり、裾の内側から両足首を造り出す形式は日本の金銅仏にない技法。

(*)長野善光寺の三尊は寺の縁起では仏教伝来時百済から献じられた像といわれ、因みに善光寺ももとは百済寺といった。


B 151如来立像は、正面からみると通肩の衣を左右に末広がり状に着し、他の金銅仏と比べて頭部が小さく長身にあらわされているのが特徴。

裾の内側から足首を出す形式は143と共通の技法。


C 158は数ある半跏像の一つであるが、像高20.5pと「四十八体仏」の中では最も小さい像。

胴や腕を極端に絞り、台座に掛かる裳の表現なども含め全体にデフォルメされた感のある特異な造形で、様式、技法とも渡来系の像であることをうかがわせる。


D 上記はいずれも6〜7C朝鮮三国時代の仏像との類似が強く、鋳造面の特徴として、銅厚が薄く、鋳込みの際に発生するガスが抜け切れずに残る、いわゆる「鬆(す)」が多いことも共通する。


E この3体の他に渡来系の可能性のある像として156菩薩半跏像を取り上げたい。

 

【156号】 菩薩半跏像〜丙寅銘
(東京国立博物館:所蔵画像)


この像は高さ41.6pとやや大きめの像だが、158と同様、胴や腕を細く絞る体型や台座の裳の平面的処理などよく似た造形。
顔立ちも異国的で百済の像との関連が想起される。

ただし、この像の台座框部分に

  「丙寅年(606または666年)高屋太夫が夫人のために造立した」

という内容の銘文があることや、鋳造上も「鬆」が少ないことから一般に渡来像とはみられていないが、なかなか鋭い造形感覚を感じる特異な像で朝鮮渡来の帰化人によって造られた可能性もあるのではないか。

なお、「丙寅年」については研究者の間でも推古14年(606)と天智5年(666)の二通りの議論があり定説はない。

666年とすれば同年の銘文のある野中寺の菩薩半跏像との対比が問題となるが、野中寺像には先進の裳の紋様や装飾技法がみられることや、百済では6C末〜7C初頃まさに半跏像盛行期を迎えていたことなどを考えれば、日本で飛鳥大仏が造立される頃の606年としても不自然ではないのではないかと思われる。

 

野中寺・菩薩半跏像〜丙寅銘666年



F 「四十八体仏」以外でみてみると、158に近い小金銅仏として長野観松院の像があげられる。
同じ半跏像で胴や腕を細く絞る手足表現も共通するもの。

新潟関山神社の菩薩立像とともに朝鮮三国時代の像に通じる要素がありともに渡来系の像とみられている。
両像とも日本海側のエリアにあり興味の持たれるところである。

     

長野観松院・菩薩半跏像         新潟関山神社・菩薩立像




(2)止利派の像


@ 止利仏師はいうまでもなく元興寺(飛鳥寺)丈六釈迦如来坐像や法隆寺金堂釈迦三尊像を造立した7C前半の仏師。

 

元興寺(飛鳥寺)丈六釈迦如来坐像


 

法隆寺金堂釈迦三尊像


「四十八体仏」の中には止利の造形上の作風を反映、継承する像がいくつか存在する。

止利式仏像の特徴としては、一般に

(顔立ち)面長な顔、杏仁形の目、かすかな笑みをもつ口元
(菩薩では)蕨手上の垂髪、鰭状に広がる天衣
(全体感として)左右対称、正面観照性

等といわれ、
このような観点からグルーピングするとすれば以下のような像があげられる。

A.止利系の像として

145  如来坐像
149  如来立像
155  菩薩半跏像

B.準止利様の像として

165  観音立像
166  菩薩立像
150  如来立像

があるが、このうちB(準止利様)のグループについては後述する。


A まず止利系の像として145如来坐像からみていくことにする。

 

【145号】 如来坐像
(東京国立博物館:所蔵画像)


一見して金堂釈迦三尊の中尊を思い起こさせる像容である。
現在法隆寺に残る「戊子年(628)銘のある三尊像」の中尊ともよく似た像で、ともに金堂中尊をイメージして(模して?)造られたものと思われるが、話はそう単純ではなく違いも目立つ。

 

法隆寺・戊子年銘三尊像〜中尊


印象でいうならば、金堂中尊がやや北魏的な厳格性、硬直性を感じるのに対し、両像は百済や南朝の像に通じる穏やかさ、柔らかさを持つ。
金堂釈迦三尊が623年、戊子年像が628年、とほとんど同時期の制作にもかかわらず、この違いはどこから来るものであろうか。


B 149のずんぐりした印象の如来立像も全体に丸みを感じさせる像である。


C 155は頭に大きな三山冠をのせる半跏像で、顔立ちは同じく止利系の法隆寺大宝蔵殿の菩薩立像とそっくりである。

    

【155号】菩薩半跏像(東博所蔵画像)       法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像


ただし、通常の半跏像と違い、上半身に衣をつけ右手を思惟風とせず施無畏印とする珍しい形で、(古い)救世観音という説もあるようである。

(注)前記の長野観松院半跏像も右手を施無畏印としているがこれは後捕。もとは思惟の形であったものと思われる。


D これら3体が止利系の像といわれるのは、左右対称、正面観照性等の作風面の加え、鋳造技法を同じくすることにある。

当時、金銅仏の制作にはかなり高度な技術が必要で、中型の造り方、中型と外型を留める型持ちの形や位置、鉄心の処理などの面でも多様な技法があったようであるが、止利派の像では、像の形に沿って頭部まで中型を設け鋳造後に鉄心を抜くという共通の技法で造られ、出来上がった像は、頭部までが空洞で銅厚がやや薄いのが特徴となっている。
高度なテクニックを持った止利系の技術集団(工房)の存在が想像される。


E 上記の通り、同じ止利派の工房でも様式面で併存する流れ(例えば高句麗経由北朝の流れと百済経由南朝の流れ)があったのかもしれないが、いずれにしても、日本の仏像の黎明期ともいうべき7C前半に大陸の様式を引き継ぎつつ技術を習得していったのであろう。

止利一門は蘇我一族の支援、庇護を受けていたといわれるので、大化改新(645)以降は次第に勢力も衰えていったものと思われる。



(3)準止利様の像


@ 止利工房の衰退とともに7C半ば以降は仏像の表現形式も変わっていくことになるが、一部に止利様の名残りをとどめる像が残されている。

165:観音立像、

166:菩薩立像、

150:如来立像

らである。


A 165観音菩薩立像は、「辛亥(651年)」の銘文をもつ像として知られ、天衣が左右に裾まで鰭状に広がる左右対称、正面観照的な造形。

 

【165号】 菩薩立像〜辛亥銘
(東京国立博物館:所蔵画像)


手には宝珠のようなものを持ち穏やかな顔立ちとともに、百済や南朝との関連が指摘されている。
また、頭飾正面に化仏が線刻され、観音としてみれば(年代のわかる観音像としては)最古の像。ただ、鋳造技法上は、止利派の像のように鉄心を抜くことなく中型の土も内部に留まっているようである。


B これとよく似た像が166菩薩立像で、165同様両手で宝珠を持つ救世観音スタイルの像。

 

【166号】 菩薩立像
(東京国立博物館:所蔵画像)


天衣は165以上に大きく左右に広がり全体に二等辺三角形のように安定感のある像容で、頭部を除けば救世観音そっくりの像である。
顔つきは丸顔でやや童顔的な印象を受け、後にみる7C後半の童子形像に通じるような感がある。
頭部宝冠前面に一見ストゥーパのような標識をつけているが尊格は不明。
像身は中に空洞のない全くの無垢とのことで、作風的には止利風ながら技法面からみると165同様止利系の像とは異なる存在と考えられる。


C 150も左右対称を基調とした如来立像で、全体の姿、顔立ちから止利風を引き継ぐグループに入れられるが、(上記)止利系の像と比べると、同じ如来立像でも頭部が小さくなりプロポーションや裾部の衣文を左右で少し違えて表現するなど、止利風を脱するところも見られる。


D 上記3体は、作風面で一見止利風の伝統を継承するかのような古様な造形ではあるが、技法面での違いや新しい表現要素も感じられ、後の時代、7C半ば〜後半期にかけて造られた像と考えられる。


E 7C前半に一世を風靡した止利工房も大化改新以降は変身を余儀なくされ、遅くとも次の天智・天武期の大寺造営の頃までには官営系工房などに組み込まれていったのではないかと推測される。



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