[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
法隆寺献納宝物・四十八体仏の全画像は、こちらでご覧ください。
東京国立博物館画像検索にリンクします〉


【第2回〜2/7〜】



3.献納「四十八体仏」の概要


@法隆寺の献納宝物は(冒頭にも記載の通り)正倉院の宝物が8C半ば、奈良時代のものが中心であるのに対し、一時代前の7C〜8C初、平城遷都の頃までのものが大半で、伝世品としてはまさに一級の文物ばかりである。


A「献納願」に添付された当時の目録をみてみると合計で147点との記載になっているが、中には単独で1点とするものの他、例えば金銅仏のように48体で1点とカウントしているもの等々が混在しているので、実際はこれをかなり上回る点数が献上されたことになる。

中味は、明治8〜9年の博覧会に出されたものが中心となっているようであるが、実際には天保13年の江戸出開帳の際に選定されたものを博覧会にも出陳し、そしてそれらがほとんどそっくり献納されたものと考えられる。
但し、博覧会出品のうち、金堂東ノ間の薬師如来坐像、玉虫厨子、持国天、多聞天等は除外されているので、当然ながら献納に当り寺内でそれなりの選別は行われたようである。


B前置きが長くなったが、ここからは本題の「四十八体仏」に入ることとしたい。
献上の目録表記では、仏像関係は

 ・金銅仏 48  及び(別箱の)光背 40本

 ・金銅 摩耶夫人1 天人3 計4体

 ・仏体として 金仏4、板仏10

 ・木仏1 計15体

とある。


C現在我々が「四十八体仏」と呼んでいるものは献納宝物中の小金銅仏の総称で、実際の数は48以上、その後の整理で57体と数えられている。

内訳は以下の通り

 



Dこれらが俗に「四十八体仏」と呼ばれてきたのは、直接的には目録の「金銅仏48」の記載によるものと思われるが、法隆寺では江戸時代の頃から「四十八」という数字が意識されてきたようで、天保7年(1836)の『斑鳩古寺便覧』によると「講堂安置の小金銅仏48体」の記録とともに、末尾に(以下簡単な要約だが)

「右、推古天皇13年に高麗国の大興王が黄金300両を貢じたので太子が止利仏師に命じ48体の仏像を造らせた。これは(無量寿経の)阿弥陀の四十八願を表すもの」

と記載されており、これが寺にとって重要な数字であったことがうかがわれる。

従って、江戸出開帳の際にもこうした由来で「四十八体仏」が出品され、献納に当ってもこの数字に合わせ像のリスアップを図ったのであろう。

(注)単純に考えれば、「上記内訳の独尊44に三尊3セット、群像1セット」を加えれば計48になる計算だが、当初の目録上は摩耶夫人の群像は別記載となっているので、実態はよくわからないところ。


Eところで、これらの金銅仏はすべてが法隆寺に由来するものばかりではない。

かつて橘寺から多数の金銅仏が移入されてきたことが文献上からも知られている。
平安時代11C頃の『金堂日記』の中に「橘寺から迎えた小(金銅)仏49体」の記述があり、当時の法隆寺伝来の像と合わせると120体近い小金銅仏があったことが記録の上からも確認されるが、現在法隆寺に(献納後)残存する金銅仏が十数体であることを考えれば長い歴史の中でかなりの数の流出があったものと想像される。

とはいえ、奈良の大きな寺の中でも7〜8Cの金銅仏がこれだけ纏まって伝えられてきた例はなく、法隆寺の歴史と信仰の賜物であることはいうまでもない。



4.金銅仏について


「四十八体仏」を概観していくに当たり、まず金銅仏の構造や造像技法的側面を簡単にみておくこととしたい。


@仏教公伝を記す『日本書紀』に、百済から献上された仏像を初めてみた欽明帝が、
「西蕃の献れる仏の相貌端厳し(かほきらぎらし)」
と驚きを込めて言ったという印象的なくだりがあるが、日本に仏教が伝来した際にもたらされた仏像は金銅仏であったといわれている。

中国でも仏教伝来説話の中に
「後漢の明帝が金人を夢見……」
との記述があるように、仏は金色に光り輝く存在で、当時貴重な金属で造られた金銅仏は最高のものと考えられていたのであろう。


A金銅仏とは、銅と錫の合金である青銅の表面に鍍金を施したもので、古代の金銅仏はほとんどが「蝋(ロウ)型鋳造」という技法で造られていたようである。

蝋(ロウ)型鋳造は古くからエジプトや中国でも使われてきた金属鋳造技法で、(詳細は割愛するが)一般には

「鉄心等の軸に粘土で粗々の形(中型)を造り、その表面に蜜蝋と松ヤニを混ぜた原料で細部を整形し、その原型の上から更に粘土で外型をつけ、乾燥させた後800度位に加熱して蝋(ロウ)部分を溶かし出し、その空洞にドロドロに溶かした高熱の青銅を流し込み鋳込みを行う」

手法。

冷えて金属が固まったところで原型を壊し取り出すので、同じものはできない。大量生産には向かないが、近年でも特殊な精密部品の製造に使われることもある。(ロストワックス法等)


B最後に、取り出した像の表面を鏨で削って顔や表面装飾を仕上げ、その上から鍍金し完成となる。

鍍金も古くから使われてきた「水銀アマルガム」という手法で、金は水銀に溶けるという性質を利用し金粉を溶かした溶液を像に塗り、火で熱し水銀を蒸発させ金を定着させる、いわゆるメッキの手法で行われる。


C以上のように、金銅仏の制作には、仏像としての規範や細かな形状等の造形上の知識にとどまらず、高温・高熱の金属を扱う危険で高度な技術を要する上、銅や金、水銀など貴重な金属の入手も必要である。

おそらくは高度なテクニックを持つ専門技術集団(工房のようなもの)が権力者らの依頼を受け制作に当ったものと想像される。



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