仏像の種類 天部(てんぶ)

図像は、『マンダラ博佛館』(西上ハルオ著 鷺書房刊)から、西上ハルオ氏の許可を得て転載したものです。
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注記無きものは、御室版高雄曼荼羅・胎蔵界(仁和寺蔵)が元図となっています。

天部(てんぶ)

 仏像の中で天部とよばれる神将像は、仏教を守護する役目をもち、如来・菩薩・明王とは区別されている。天部の多くは仏教成立以前の古代インドの神々がその前身と考えられている。これらの諸神を大別すると、温和な貴人の姿で表される貴顕天部と、甲冑に身を固め、武器を執り忿怒の姿に表さわれる武人天部に分けられる。貴顕天部の諸神は、梵天帝釈天などヒンドゥー教の最高神に位置することが多い。また吉祥天や弁財天など、女神のいることも特徴の一つである。武人天部は、四天王・毘沙門天・仁王・執金剛神あるいは八部衆・十二神将・二十八部衆・深沙大将・大黒天など、武神に現わされるほか、非人間的な姿の像が多い。八部衆や十二神将、二十八部衆など、主として武人天部の姿をとり、如来や菩薩の本誓を守護し、その実現のために働く尊を眷属とよんでいる。

 

 梵天・帝釈天

 梵天・帝釈天は、いずれもヒンドゥー教の神から、仏教に採り入れられて守護神となり、二神一組としてまつられることが多い。ともに長袖の唐服を身にまとうが、古い時代の像(東大寺三月堂像、747頃)は、その下に甲冑を着けている。頭部は菩薩のように、髪を結い上げ、宝冠を戴くのが普通である。また足は鼻高沓をはき、中国風貴人の姿に表される。東大寺像のほか、奈良法隆寺食堂塑造像(奈良時代)、唐招提寺金堂像(奈良時代)、滋賀善水寺像(平安時代後期)などが、代表的な作例である。これらの像がいずれも立像であるのに対し、空海の請来した新図像に依ったと考えられる京都教王護国寺像(839)は、梵天が鵞鳥(がちょう)、帝釈天は象に騎乗する姿で現わされている。平安時代以降の二神は、各々単独で安置される例が多く、帝釈天が庚申を司る神として祀られるようになるのは、こうした例である。

 

 吉祥天

 吉祥天は唐服をまとった淑女の姿で表されるのがふつうである。この神は金光明経功徳天品(こんこうみょうきょうくどくてんぼん)とともに信仰され、吉祥悔過(きちじょうけか)の本尊として知られている。吉祥悔過は、称徳天皇神護景雲元年(767)に、天下太平・五穀豊穣を祈り、諸国の金光明寺で行われた記録が最も古い。また宝亀三年(772)には、諸国の国分寺で吉祥悔過を行うことを定めるなど、その信仰が国家的なものであったことがわかる。遺品は比較的多く、法華寺伝法堂塑造像、東大寺三月堂像、西大寺像、唐招提寺押出仏像(各奈良時代)、当麻寺像(平安時代前期)、奈良薬師寺像、福岡観世音寺像(各平安時代後期)、滋賀園城寺像、京都浄瑠璃寺像(各鎌倉時代)などが代表的な像である。

 

 弁財天

 弁財天も女神であって、金光明最勝王経の大弁財天女品に依拠する神である。吉祥天のように国家的信仰は少なく、個人の信仰によって造像されたと考えられる。神奈川鶴ヶ岡八幡宮の裸形弁財天像(1126)が、中原朝臣の発願によって造像され、舞楽院に安置して芸事の上達を祈ったことなどは、こうした例である。像容には八臂像と二臂像また裸形像がある。遺品としては、東大寺三月堂の塑造八臂立像(奈良時代)、大阪孝恩寺立像(平安時代後期)が古い。坐形をくずして琵琶を弾く豊艶な裸形像は、鎌倉時代以降にみられ、鶴ヶ岡像のほか、江ノ島弁財天像(室町時代)が名高い。

 

 伎芸天(ぎげいてん)

 伎芸天の信仰はあまり知られていないが、奈良秋篠寺像の乾漆頭部は、奈良時代の造像である。この像の体躯は、鎌倉時代の補修である。

 

 

 

 

 

(別尊雑記)

 詞梨帝母(かりていも)

 詞梨帝母は鬼子母神(きしもじん)の名で知られている。その信仰は平安時代後期より起り、のちに子育ての守護神として信仰され、現代にまで続いている。古い時代の遺品は少いが、東大寺修二合宿所(しゅにえしゅくしょ)像、岩手毛越寺(もうつじ)像(各平安時代後期)、滋賀園城寺護法善神堂像(鎌倉時代)が名高い。

 

 

 

 

(唐本・別尊雑記)

 四天王

 四天王は武人天部の中では、鎮護国家の守護神として最も古くから信仰を集めた尊である。普通須弥壇の四方を固め、持国じこく(東方)・増長(ぞうちょう)(南方)・広目(こうもく)(西方)・多聞(たもん)天(北方)とよばれ、猛々しい武将の姿で邪鬼を踏まえて立っている。また、この二天のみを安置するときは、持国天と多聞天を安置する。さらに二天を左右に安置した門を二天門と呼んでいる。多聞天が単独で信仰されるときは毘沙門天とよばれる。四天王像の古い像としては、法隆寺金堂四天王像(飛鳥時代)、奈良当麻寺脱乾漆像(奈良時代)、東大寺三月堂脱乾漆像(747ころ)、戒壇院塑造像、興福寺木心乾漆像(791)などが代表的な像である。平安時代にはいってからの像としては、教王護国寺像(839)が注目される。鎌倉時代の像としては、興福寺南円堂像・浄瑠璃寺像や興福寺像の模刻として知られる大分県永興寺像(1321)などがすぐれている。平安時代の終りころからみられる二天像は、東大寺像(1159)や長野県藤尾観音堂像(1279ころ)などの遺品がみられる。

 

   

持国天              増長天 

   
広目天             多聞天

 毘沙門天(びしゃもんてん)

 毘沙門天は四天王のうち、北方多聞天と同尊である。この尊は奈良時代の末頃から単独に信仰を集めるようになった。岩手万福寺像、応保二年銘川端氏像(1162)、福井羽賀寺像(1168)、運慶作静岡願成就院像(1186)、同神奈川淨楽寺像(1189)などが知られている。兜跋毘沙門天は毘沙門天の異形像である。この尊は、王城守護の信仰から盛んに造像されるようになった。かつて平安京羅城門楼上に安置されていたという教王護国寺像(唐、九世紀)が最も古く、宝冠をかぶり西域風の甲冑に海老籠手をつけ、地天の手の掌に立つなど、いかにも異国的な像である。平安時代から全国に教王護国寺像を範とした模刻像が残されるが、京都清涼寺像、滋賀善水寺像(各平安時代)などが代表的な作例である。他に比叡山文殊堂にあった「屠半様」とよばれる唐風の鎧をつけた兜跋毘沙門天像が知られており、その代表例が岩手成島毘沙門天像である。

 (別尊雑記)

 仁王像

 仁王像は普通山門の両側に、伽藍の守護神として安置される。口を開いた像を阿形像(あぎょうぞう)、閉じた像を吽形像(うんぎょうぞう)とよぶほか、金剛力士・密迹(みつしゃく)力士などのよびかたもある。古い像では、東大寺三月堂像のように、堂内に安置され、甲冑に身を固めた像もあるが、一般的には上半身を裸形とする像が多い。遺品は飛鳥時代を除き各時代にみられ、三月堂像、長谷寺銅板法華説相図(白鳳時代)、法隆寺南大門像塑造頭部(711)などが古い像である。平安時代前期には、滋賀着水寺像がある。平安時代後期の像としては、福島法用寺像、京都醍醐寺像(1134)、峰定寺像(1163)などがあげられる。鎌倉時代には、運慶・快慶の競作として知られる東大寺像(1203)のほか、千葉万満寺像、岐阜横蔵寺像(定慶作、1256)や、京都万寿寺像、興福寺像など多数の像が残されている。執金剛神は、仁王と同体といわれ堂内にまつられるが、遺品は少い。東大寺三月堂像(奈良時代)、京都金剛院快慶像が知られている。

 

 大黒天(だいこくてん)

 武人天部の中で大黒天は、本来は古代インドの武神であるが、中国へ伝来してからは厨房を司る尊とされた。さらに中国からわが国へは最澄によって伝えられ、鎌倉時代以後に大国主命と結びつき、福神として信仰されるようになった。こうした変遷を物語るように、わが国の遺品のなかでも古い像である滋賀明寿院像や延暦寺本坊像(各平安時代)などは武装の像である。また福岡観世音寺像(平安時代)や奈良松尾寺像、興福寺像(各鎌倉時代)は、袋を負ったほう(示ヘンに包)衣姿の像である。さらに時代が下ると、現在みられるような米俵に乗り、微笑を浮かべた像となる。延暦寺像(1301)や法華寺像(1319)がそうした初期の像である。また異形像としては、室町時代ごろから始まった三面大黒天がある。毘沙門天・大黒天・弁才天の三面を併せもつ福神である。

 韋駄天(いだてん)

 韋駄天は増長天の眷属(けんぞく)の一尊で、僧侶や伽藍の守護神とされるが遺品は少い。岐阜乙津寺像(鎌倉時代)や京都万福寺像(江戸時代)などが知られている。

 

 深沙大将(じんじゃたいしょう)

 深沙大将も遺品の少い像である。砂漠の中で玄装(げんじょう)三蔵を救ったという奇怪な鬼の姿をした砂漠の神である。岐阜横蔵寺像、京都金剛院快慶像、福井明通寺像などが傑作である。

 十二神将

 十二神将は、薬師如来の本誓を守護する十二人の薬叉大将である。わが国では、もと石淵寺像の奈良新薬師寺像(奈良時代)が古い例である。十二神将は平安時代の中ごろになると十二支と結びつき、各尊を方角に従って配置したり、造像の上でも頭上に十二支をつけ、次第に民間信仰との結びつきを深め、十二支に該当する神将が生れ歳の守護神とされるようになった。しかしこれらの大将は、各遺品の将名・形姿・持物・十二支などが一致する像が少なく、各像の将名を混乱させている。また十二支の数え方も、子を始めとするほか、寅あるいは亥から数える例もある。平安時代後期の像としては、京都広隆寺像(長勢作、1064)のほか、興福寺板彫像が名高い。このほか、兵庫東山寺像は、京都より移された像で藤原時代も初めのころの造像とみられるが、十二神将と十二支が結びついた最も古い像として注目される。鎌倉時代の像としては、京都法界寺像、興福寺東金堂像(三〇七)、奈良室生寺像、神奈川宝城坊像などがすぐれている。また東京国立博物館や静嘉堂文庫、個人の所蔵にわかれている十二神将像は、図像と一致する像があり注目したい像である。鎌倉時代以後の像はいずれも小型化し、教王護国寺像(桃山時代)などは、本尊薬師如来像の台座の周りに配置されている。また奈良戒長寺薬師如来像(平安時代後期)の光背には、後補ではあるが雲座に坐る十二神将が配置された珍しい例である。なお戒長寺には、梵鐘1191の池ノ間に陽鋳された十二神将像があり、これも貴重な遺品である。十二神将の中、宮毘羅大将が単独で信仰されるとき、これを金毘羅大将とよんでいる。

 

 八部衆

 仏の眷属として仏法を守護する八種の天部。普通は天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩喉羅迦の八像。遺品は少ないが、興福寺乾漆造八部衆像(奈良時代)が有名である。法隆寺五重塔塑造群の中にも乾闥婆・阿修羅像(白鳳時代)がみられる。
   
         阿修羅            迦楼羅(伝真言院曼荼羅・胎蔵界)

 二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)

 二十八部衆は千手観音の眷属である。仁王をはじめ、梵天・帝釈・四天王・八部衆・弁財天など、経典によって若干の違いはあるが、天部の諸尊を結集した集団である。遺品は多くないが、滋賀常楽寺像、京都蓮華王院(各鎌倉時代)、東京観音寺像(功徳天のみ鎌倉時代)などがみられる。なお風神・雷神は、二十八部衆に含める常楽寺像と含めない蓮華王院像がある。

 

 竜王像

 天部像には数少いが、雨乞いの本尊として造像されたとみられる竜王像もある。大阪孝恩寺難陀なんだ竜王像・跋難陀(ばつなんだ)竜王像、京都月輪寺竜王像(各平安時代後期)、法隆寺善女竜王像(鎌倉時代)などが知られている。

 

 歓喜天(かんぎてん)

 特殊な天部像としてあげられるのが歓喜天である。この尊は聖天(しょうてん)とも言われ、平安時代のころから信仰を集めてきた。象頭人身の二身が抱擁する珍しい形式であるが、奈良長岳寺像、神奈川宝戒寺像(各鎌倉時代)などが古い。
(別尊雑記)     

 地獄六道関係の諸尊

 仏像の中でも、浄土教美術に属する地獄六道関係の諸尊は、一般的な仏像彫刻の分類には属していない。これらの像には、冥府の裁判所長官である閻魔大王を始めとし、十王・倶主神(ぐしょう)・脱衣婆(ばつえば)・司録・司令などがある。この信仰は、平安時代の浄土教の発達とともに盛んとなったが、彫刻の上では鎌倉時代以降に限り遺品がある。十王は、秦広(しんこう)王・初江(しょこう)王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪(てんりん)王である。これらの王は、人の死後三年間、その人の生れる世界が決定するまでの間、初七日から三回忌に至る各忌日の裁判官であって、中国の五代から宋代までの問に、道教思想が加わって成立したといわれる。十王はいずれも中国宋代の衣冠をまとった姿で造像されている。十王像の遺品としては、神奈川円応寺像1251や奈良白毫寺(びゃくごうじ)像(1259)が名高い。閻魔王の像には、京都宝積寺(ほうしゃくじ)像・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)像など、いずれも鎌倉時代の像がある。閻魔像の一具として造像される像として、倶主神や司録・司令がある。倶主神は人が生れついてから生涯、その肩にあってその人の行為を監督し、死後にそれを閻魔に報告するといわれる。宝積寺像や滋賀浄信寺像(鎌倉時代)などがある。司録・司令は、人の罪状を記録し究明する地獄の役人である。白毫寺像、宝積寺像、奈良金剛山寺像(鎌倉時像代)などが知られている。他に法具に近いものであるが檀孥幢(だんどとう)いわゆる善悪人頭杖(じんとうじょう)がある。円応寺幢(とう)(南北朝時代)が名高い。杖の上の荷葉かように、善・悪を見抜く童形面と忿怒面の二面を載せる。脱衣婆(葬頭河婆)は、三途の川で亡者の衣類を剥ぎとる鬼婆である。長野牛伏寺像(1422)や円応寺像(1514)などが知られている。他に円応寺鬼卒像、宝積寺闇黒童子像(各鎌倉時代)などがある。

 

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