仏像の種類 如来(にょらい)

図像は、『マンダラ博佛館』(西上ハルオ著 鷺書房刊)から、西上ハルオ氏の許可を得て転載したものです。
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注記無きものは、御室版高雄曼荼羅・胎蔵界(仁和寺蔵)が元図となっています。

 

如来(にょらい)

 通常、如来・菩薩・明王・天・羅漢をすべて仏像と呼ぶことが多いが、厳密には、悟りを開いた如来だけが仏、仏像である。この悟りを開いた者、真覚に到達した者、また覚者とも訳される如来は、自ら修業中の菩薩や仏法を守護する天とは区別されている。
 如来の多くは、如来形とよばれる相好、仏の三十二相八十種好と呼ばれる特徴を有していると言われ、彫刻もこれにならって造られているものが多い。すなわち、頭上に盛り上ったお椀のような肉髻(にっけい)、螺貝に似た髪、いわゆる螺髪(らほつ)、あるいは額上にあり光を放つという白い毛の白毫(びゃくごう)、胸前の卍字、手指間の水かきのような縵網相(まんもうそう)、足裏の千輻輪(せんぷくりん)などが一般にみられる。また体には、簡単な衲衣(のうえ)とよばれる法衣をまとい、装飾品は一切つけていない。手には薬師如来など特殊な如来を除いて何ももたず、印相(いんぞう)とよぶ手印(しゅいん)を結んでいる。
 ただし、五智如来の中尊であり、全宇宙を統括するとされる大日如来は、宝髻を高く結い、宝冠を頂き、瓔珞で身を飾っている。また、如来像に宝冠を載せる例としては、他に鎌倉時代に日本で造られた宝冠阿弥陀如来及び、インド中世期に造られた宝冠如来がある。
こうした如来は、各時代に信仰され、造像されてきたが、その中で代表的な如来が、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・盧舎那(るしゃな)仏・弥勒仏である。

   

阿しゅく如来(別尊雑記)    宝生如来(別尊雑記)

 釈迦如来

 仏教を開いた釈迦の像は、欽明天皇七年(538)に仏教伝来とともにわが国へ伝えられた。遺品としては、最も古い奈良飛鳥寺釈迦如来像(605)をはじめ、法隆寺金堂釈迦三尊像(623)、東京博物館蔵法隆寺献納宝物の戊子(ぼし)年銘釈迦および脇侍(わきじ)像(628)、同摩耶夫人(まやふじん)並びに采女(うねめ)像などの飛鳥仏がある。さらに白鳳時代の像としては、京都蟹満寺像、献納宝物甲寅(こういん)年銘光背(654)などがあり、菩提追福の像が多い。奈良時代の像としては、奈良東大寺誕生仏、滋賀善水寺誕生仏、法隆寺五重塔涅槃(ねはん)像(711)など多種にわたり、すぐれた像が多い。平安時代の像としては兵庫円教寺像などがあるが、注目される像は、然(ちょうねん)が中国より請来した清凉寺釈迦如来像(北宋、985)である。この像は次の時代、南都旧仏教を中心とした復古主義により、最も釈迦信仰の盛んとなった鎌倉時代に、三国伝来の瑞像として模刻が流行し、清凉寺式釈迦とよばれた。西大寺の叡尊(えいそん)が仏師らを率いて清凉寺へ出向き、この像を模刻させたことなどが、そうした事情を物語っている。清凉寺式釈迦像としては、東京大円寺像(1258)、奈良西大寺像(1249)、唐招提寺像(1258)など、全国に残されている。

 

 薬師如来

 現世利益の仏である薬師如来は、飛鳥時代の像として法隆寺金堂像(607)があるが、その信仰が盛んとなり、国家的なものにまで高められた時代は、白鳳時代から奈良時代である。天武天皇九年(681)に発願され、持統天皇十一年(697)ごろに完成した奈良薬師寺金堂三尊像、天平十七年(745)に、京及び諸国に発せられた薬師像七躯、経七巻の造写の詔などが、こうしたことを裏付けている。また景戒の『日本霊異記』は、薬師信仰がこの時代には一般民間にまで広がっていたことを伝えている。この時代の像としては、薬師寺像、石川薬師寺像、滋賀聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)寺像などが代表的な像である。平安時代は密教の確立された時代である。日本天台の祖最澄は、延暦二十二年(803)の渡唐の際、遣唐船の安穏を祈り太宰府や竈門山寺(かまとやまじ)で六尺の薬師仏四躯を造ったことが知られている。また比叡山根本中堂が薬師如来像を本尊としたことから、これ以後天台宗では、重要な仏としてまつられている。平安時代初期の像としては、京都神護寺像や奈良元興寺像があげられる。また地方像にも、岩手黒石寺像(862)、福島勝常寺像、広島古保利(こぼり)薬師堂像など、すぐれた像が多い。平安時代も中ごろに入ると、末法思想の流行とともに現世仏として信仰され、法性寺や法成寺に安置されていたことが知られている。鎌倉時代にも引き続き現世利益の仏として信仰されており、京都醍醐寺像、高知雪蹊寺(せっけいじ)像、茨城岩谷寺像(1253)など多数の像が残されている。

 

 阿弥陀如来

 平安時代中ごろから、浄土信仰と共に大流行した阿弥陀如来は、文献の上では舒明天皇十二年(640)に入唐僧恵穏が宮中で阿弥陀の経典、無量寿経を講説したことを初見とする。白鳳時代に入ると信仰が広がり、献納宝物「山田殿」像や法隆寺押出仏、橘夫人念持仏など、三尊形式の像がされている。奈良時代には、東大寺三月堂不空羂索観音像の宝冠上の化仏のような立像(747)が現れる。他に法隆寺東院伝法堂像、奈良興福院(こんぶいん)などが、この時代の代表的な像である。平安時代初期の阿弥陀像は密教の影響を受け、京都安祥寺五智如来像のように、五智如来のうちの一躯として造像された。しかし京都仁和寺・棲霞寺三尊像など単独像としての造像も多い。末法思想や、源信の「往生要集」によって、浄土教思想の流行した藤原時代は、極楽浄土の教主として阿弥陀信仰は最盛期を迎えた。京都平等院像(1053)や京都法界寺、法金剛院、三千院像(1148)などが、そうした像である。またこの時代には、来迎(らいごう)印を結ぶ阿弥陀像も現れた。鎌倉時代の阿弥陀像は、一刻も早く極楽往生を望む臨終者の気持の表れであろうか立像が多い。また釈迦像とともにこの時代の復古主義により、仏教伝来当初の霊仏として善光寺式阿弥陀三尊の模刻像が流行した。神奈川円覚寺像(1271)などが代表例である。更に五劫思惟(ごこうしい)阿弥陀、宝冠(ほうかん)阿弥陀などの異形の阿弥陀像が増えたのもこの時代の特色である。

 

 大日如来

 密教理論から生み出された大日如来には、金剛界胎蔵界大日の二種がある。真言系寺院では金剛界、天台系では胎蔵界大日をまつる例が多い。現存の最も古い像は、安祥寺五智如来の中尊像である。他に和歌山金剛峯寺西塔像(886頃)、運慶作の奈良円成寺像(1176)などが著名である。

 弥勒仏

 未来仏である弥勒仏には、兜率天(とそつてん)で瞑想にふける半跏(はんか)思惟の菩薩像と、釈迦入滅後五十六億七千万年後に下生(げしょう)するという如来形がある。文献では敏達天皇十三年(584)に、百済から弥勒石仏がもたらされ、蘇我馬子がまつったことや、秦河勝(はたのかわかつ)が蜂岡寺(京都広隆寺)を創建して弥勒をまつったことなどが古い記録である。飛鳥時代の像としては広隆寺像が名高い。白鳳時代にも造像例は多く、献納宝物の他、大阪野中寺像(666)が知られている。これらはいずれも菩薩形である。奈良時代では法隆寺五重塔南面の本尊(711)や奈良当麻寺(たいまでら)像などの弥勒仏が残されている。以後弥勒下生の信仰とともに弥勒仏の遺品が多く、東大寺像、和歌山慈尊院像(892)、奈良興福寺北円堂像(1208頃)が名高い。

 

 盧舎那仏

 盧舎那仏は、釈迦の法身仏という観念上の仏である。遺品としては、奈良唐招提寺像や東大寺大仏などがよく知られている。

 

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