仏像の種類 明王(みょうおう)

図像は、『マンダラ博佛館』(西上ハルオ著 鷺書房刊)から、西上ハルオ氏の許可を得て転載したものです。
無断転載を禁じます。
注記無きものは、御室版高雄曼荼羅・胎蔵界(仁和寺蔵)が元図となっています。

 

明王(みょうおう)

  明王は密教の中から生れた尊である。明は真言(しんごん)・陀羅尼(だらに)・呪文(じゆもん)の意味をもち、明王とよぶときは陀羅尼の威力を人格化した 固有名詞としてつかわれる。また明王を教令輪身(きょうりょうりんじん)ともよぶ。密教では覚者、真理と悟り、その真理と同体と考える如来を法身仏(ほっ しんぶつ)、自性輪身(じしょうりんしん)とよび、衆生を導き教化する菩薩を正法(しようぽう)輪身とよんでいる。これに対して法身仏が、教化のしにくい 衆生を救済するために怒りの形相、忿怒の姿に変わるとき、これを教令輪身と説明している。明王部の諸尊は、大日如来の教令を受けて忿怒の姿を表し、仏法を 守る神である。
明王の種類は多いが、その像容は一部の例外を除き、いずれも髪を逆立て、炎髪としたり、歯をむき出した怒りの面相、忿怒面、あるいは多面多目、多臂多足と し、体躯に蛇をまきつけたり、虎皮裙(こひくん)とよばれる裳をまとうなど、奇怪な姿で表されている。特に大威徳明王は、六足尊と呼ばれるように、六面六 臂六足の珍しい姿を持つ。また光背の多くは火焔である。台座には岩座や鳥獣座、あるいは大自在天とその妃を踏みつけた像などが多い。
明王像が日本へ伝わったのは、大同元年(806)といわれる。この年、空海が唐より帰朝し、初めて正純密教が伝わり、忿怒の明王が知られるようになった。 これ以後、五大明王(不動・降三世(こうさんぜ)・軍茶利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王)を中心に、その信仰が広 まりまた多様化していった。五大明王のほか、これに馬頭(ばとう)・歩擲(ぶちゃく)・大輪明王を加えた八大明王、あるいは前代から信仰のあった孔雀(く じゃく)明王のほか、愛染(あいぜん)・烏枢沙摩(うすさま)・大元師(だいげんすい)・青面(しょうめん)金剛夜叉明王などがある。

軍茶利明王(別尊雑記)        大威徳明王      金剛夜叉明王(図像・京都醍醐寺) 

 不動明王

 (黄不動図像・京都曼殊院)

  不動明王は、五大明王や八大明王の中心に配される明王である。この尊は五大明王の伝来から間もなく単独で信仰を集めるようになった。わが国では阿弥陀や観 音・地蔵などとともに最も信仰の多い代表的な仏である。仏像彫刻の上では、平安時代の伝来ということもあって、平安以前の像は一躰もない。一番古い像とし て挙げられるのが、京都教王護国寺講堂に安置された承和六年(839)造像の五大明王、その中央の不動明王坐像である。この像は髪を総髪(そうはつ:髪全 体を左耳前に纏めた髪型)にし、弁髪(べんぱつ:左のもみあげを長く伸ばしたもの)を左肩前に垂らし、両眼を見開いた忿怒相で、特に真言寺院に安置される 不動明王像の基準作例とされた。教王護国寺の御影堂には、もう一躰の不動明王坐像が秘仏として安置されており、この像も講堂像と同一系統の像で、同じ頃に 造像されたとみられる。一方、天台系寺院に安置される不動明王は、承和五年(八三八)に円珍が感得したという、三井寺の黄不動(きふどう)画像を範とした と推定されている。この系統の不動明王は立像で、沙髪(しゃけい)とよぶ乱れ髪をもつ。これらの平安初期の像に対し、平安中期以降は、右目を見開き左目は 下を見る、いわゆる天地眼(てんちがん)、及び右の下牙と左の上牙でそれぞれ唇を噛む上下牙を表わすものが多い。不動明王像の遺品は、その盛んな信仰とと もに数も多く、上記の他、和歌山高野山王智院像、親王院像(各平安時代)、京都同衆院像(1005頃)や小浜円照寺像(平安時代)、運慶作神奈川浄楽寺像 (1189)など、数えきれない程の傑作がある。
 眷属としては、矜羯羅、制多迦の二童子を従えることが多いが、多に八大童子、三十六童子を従える例もある。

 降三世明王

  五大明王の中で降三世明王は、金剛界大日如来の教令輪身ともいわれ、不動明王に次いで仏格の高い明王である。これらの明王は、不動明王を除き、独尊として まつられる例は少ないが、関東では軍荼利明王を本尊とする例が一、二みられる。しかしたいがいは五尊一具として、五大堂に安置され、朝敵降伏の像として信 仰されるのが一般的である。遺品としては教上護国守講堂の五大明王像(839)を最古とし、そのほか京都醍醐寺像、奈良不退寺像(各平安時代)、京都大覚 寺像(1176)などが残されている。

 孔雀明王

  孔雀明王は、明王の中では例外的な菩薩相の像である。この明王は五大明王よりも早く日本に伝えられた。役の行者がその信仰をもっていたと伝えられるほか、 『西大寺資財帳』には、薬師金堂内に、孔雀明王菩薩二躯を安置したことが記され、この明王が空海より前、奈良時代には知られていたことがわかる。また平安 時代には、円珍や理源大師聖宝(しょうぼう)などが孔雀明王の信仰をもっていたことが知られている。しかし遺品は少なく、主として絵画にみられるが、彫刻 の上では快慶作、和歌山金剛峯寺孔雀堂像(鎌倉時代)や奈良正暦寺像が知られる程度である。

 

 

 

 

(図像・東京国立博物館)

 馬頭明王

  馬頭明王は馬頭観音である。この明王もまた奈良時代から知られていたが、信仰が盛んとなったのは平安時代にはいってからである。さらに時代が下って室町時 代以降、とくに江戸時代には、馬と結びついて一般民衆の中にまで浸透し、無数の石仏がみられるようになった。作例としては、奈良大安寺像(奈良時代)が馬 頭観音と伝えられるほか、石川豊財院(ぶざいいん)像、福岡観世音寺像(各平安時代後期)や京都浄瑠璃寺像(鎌倉時代)などが代表的な像である。

 愛染明王

  愛染明王は、愛欲と食欲をつかさどる明王で、平安時代中ごろから鎌倉時代にかけて信仰の盛んとなった。全身赤色で眉間にも眼をもつ三目で、六臂の手には、 それぞれ金剛鈴、金剛弓、拳、五鈷杵、金剛箭、蓮華などを持ち、頭には獅子頭をつけた、独特の姿に表される。平安時代の像としては山梨放光寺像、京都神童 寺像、仁和寺像が知られている。鎌倉時代にはいると、奈良西大寺愛染堂本尊像(1247)、京都神護寺像(1275)や神奈川称名号像(1297)などが 名高い。愛染明王像には二種類あり、弓矢を天に向ってつがえた像を天弓愛染明王と呼んでいる。放光寺像などが代表的である。

 

 太元帥明王

  太元帥明王は、承和六年(839)に小乗栖(おぐるす)常暁が請来した像である。常暁が山城小乗栖に創建した法琳寺は、この明王を本尊としていたと伝えら れている。戦勝祈願の像として六臂、または八面三十六臂の忿怒形に造られ、宝棒・三鈷・宝輪・斧などの武器を持物としている。遺品は少ないが、奈良秋篠寺 像(鎌倉時代)が名高い。

 

 烏枢沙摩明王

 烏枢沙摩明王は、密教や禅宗の中で便所などの不浄処にまつられ、不浄やけがれを焼き尽す力を持った明王である。忿怒の形相に、剣や索、三段叉(さんこさ)などを持物としている。古い像は残らないが、富山瑞竜寺像(江戸時代)などが知られている。

 

 青面金剛夜叉明王

  青面金剛夜叉明王は、智証大師円珍が請来したといわれる明王である。一面三眼六臂の忿怒形で、体躯には蛇をまきつけている。持物として、剣・宝棒などの武 器を執る。病魔や邪鬼を除去するといわれ、特に江戸時代にはいってからは庚申信仰と結びつき、この明王が庚申の本地仏とされて石仏が多く造られた。古い像 としては、東大寺像(平安時代後期)が残されている。

 

inserted by FC2 system