時代の特徴

3. 天平時代

 和銅三年(710)の平城京遷都から、延暦十三年(794)の平安遷都までを天平時代という。仏教は、公伝とは言うものの、実際に仏像を安置し、寺院を建立し仏像を安置したのは、蘇我氏や、蘇我氏の一族であった聖徳太子など、貴族を中心としたものであった。しかしながら、聖武天皇の代になって、天皇自身が仏教に帰依し、仏教の性格が前代よりもさらに国家的要素を加え、造寺造仏も国力を傾けて造営されたことになる。

 仏像彫刻も天智朝に百済や高句麗から高度の技術を持った多くの技術者が、日本に帰化して仏教彫刻の新技術を伝え、日本の彫刻技術を著しく進歩させたものと思われる。八世紀初め、都が藤原点から平城京に移ると、それまで藤原京やその付近にあった大安寺・興福寺・薬師寺などの大寺が平城京に移転し、たちまち奈良の都は寺院、仏像の建立ラッシュとなった。さらに聖武天皇は、天平十五年(743)諸国に国分寺・国分尼寺を建立する勅令を出し、奈良には総国分寺として毘盧舎那仏(びるしゃな)像(奈良大仏)を本尊とする、東大寺の造営を行い、孝謙天皇は、東大寺と相対する位置に西大寺を建立するなど、その熱狂的信仰は、仏教界の勢力をいよいよ強力なものにした。

 このように天平時代の大半は、歴代天皇の庇護のもとに国家仏教として、奈良の都を中心に空前の仏教芸術の花が咲いた時期である。仏像彫刻も、遣唐船や留学僧などによって、もたらされた、唐様式の新しい仏像様式や、乾漆、塑像等の新しい素材をとり入れた造像が行われた。

 特に、東大寺の造営に際しては造東大寺司という役所が設けられ、仏像はその中の造仏所で多くの工人たちによって組織的に行われ、旺盛な仏像の需要を背景に、乾漆や、塑像等、流れ作業的に制作出来る造像法と相俟ってかつて無い程大量の仏像が作られた。造仏所には、多い時には五百体以上の像が注文されることもあったという。

 しかし、先の白鳳彫刻も同様であるが、仏像の作者名は、今日ほとんど伝わっていない。これはおそらく、大化の改新以降、仏像造像工たちも律令社会の組織の中に組み込まれ、特に乾漆や、塑像等、いくつかの職種の工人が流れ作業的に造像に携わるという面が大きくなり個性を持った仏師というよりは、職人として仏像制作に従事するようになったためであろう。

 従って、その上に立って全体を統括する人間は造像に関する最新の知識と経験を積んでいることが要求され、渡来人系の工人の活躍の場となった。東大寺の毘盧舎那仏像をみごとに造り上げた国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)をはじめ、興福寺の十大弟子・八部衆立像などを制作した将軍万福、石山寺の丈六の観音像などを制作した志斐連(しひのむらじ)公麻呂や己智帯成(こちのおびなり)など、いずれも渡来人系であり、独自のネットワークを駆使して、活躍の場を広げていったものと思われる。

 この時代の仏像は、単にこうした公の造仏所で制作されただけではない。八世紀半ばに書かれた「日本霊異記」には、東大寺法華堂の執金剛神像の伝説を伝える金鐘寺の金鷲行者、霊木を刻んで長谷寺の本尊を制作した沙弥徳道、釈迦三尊像を造像した僧観規、唐で観音像を造った河邊法師など、当時の僧侶、私度僧が、造像を行い礼拝していたということが記されている。これらが全て史実とは考えられないが、こうした例の他、奈良の都などには私仏所と称するものがあって、民間人の仏像の需要に応えたものと考えられる。

 天平時代には、彫刻技法の種類も非常に多い。当代彫刻技法の主流は、金銅像・乾漆像・塑像であるが、金属像としては金・銀像が加わる。金像の例は文献上で多く見られ、遺品としても、平安時代に入っての作例ながら、金峯山寺境内から出土した如来坐像が知られる。銀像の遺品としては、東大寺法華堂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像の化仏(けぶつ)、興福寺の銀仏手などが伝わっている。白鳳時代に引続き、奈良・頭塔(ずとう)など石仏の制作も盛んで、その技法の種類の多いことは前後に例がない。

 金銅像の遺品には、東大寺の盧舎那仏像(膝の部分が天平当初のもの)をはじめ同寺誕生仏及び半跏思惟(はんかしい)像、法隆寺西円堂薬師如来像の体内仏と伝えられる薬師如来像、脱乾漆像の代表的遺品には、東大寺三月堂の不空羂索観音像をはじめ、梵天・帝釈天・四天王像、興福寺十大弟子・八部衆立像、唐招提寺盧舎那仏像、木心乾漆には、奈良聖林寺十一面観音像や京都観音寺の十一面観音像など、塑像の像としては、法隆寺五重塔塑像群をはじめ、東大寺三月堂の日光・月光菩薩立像、同寺戒壇院の四天王像、同三月堂執金剛神(しつこんごうしん)像や新薬師寺の十二神将像、など、天平彫刻、引いては日本仏教彫刻を代表する作品がひしめいている。

 天平時代の仏像の特徴は、中国の初唐・盛唐前期の様式の影響を受けて、前時代の形式的な造形に比較し、写実的な要素が表れてくることである。面相も白鳳時代の童子形から脱却し、円熟した理知的写実性を持つものが多くなる。東大寺戒壇院四天王立像、や法華堂(三月堂)諸像など、写実性を保持しながら、内面的な崇高な精神性を表現した像は、この時代をおいて外にはない。

 天平時代の前半は、国家的造像環境下で、多大な経済力を背景に、東大寺大仏をはじめとして、東大寺法華堂の諸尊像など多くの巨大な仏像や、金銀造や乾漆造など高価な材料を使用した仏像が多く造られた。特に当時漆は高価で、興福寺東金堂の安置仏であった、八部衆像や十大弟子像等を造るために要した漆の費用が、堂自体を建立する費用と同等であったと言う。

 しかし、東大寺の造営を通じて、推し進められてきた造寺造仏の流れも、税金にあえぐ民衆の反感を買い、次第に熱が冷めると共に、大量生産の結果、仏像は類型化して迫力の乏しいものになっていった。

 大寺の造営が一段落した、延暦八年(789)には、寺院造営を統括してきた造東大寺司もその役目を終え、ひっそり解散する事になる。その後は、それらの工人が民間の造仏所に移り、独自の造仏活動を続けると共に、類型化した像に飽き足らなくなった工人や、国家仏教を中心とした南都仏教を嫌い、独自の宗教活動を行ってきた僧侶達により、手軽に入手できる木材による造仏が行われてきたものと考えられる。この中から、八世紀末に制作された神護寺の薬師如来立像や、唐招提寺の伝薬師如来像・獅子吼・衆宝王菩薩像など、木の材質に潜在する力量感を充分に生かし彫刻の生命力を感じさせるような像が生まれてきた。これらの彫刻様式は、おそらく、八世紀中頃の唐彫刻がわが国に影響して発生したものと思われ、特に唐招提寺の諸像は、鑑真の渡航に従って来朝した工人によるもの、ないしはその影響下で制作されたものと考えられる。これらの彫刻様式が、つぎの平安時代初期の彫刻へと展開し、日本の彫刻史を大きく変化させることになる。

 

 

inserted by FC2 system