時代の特徴

10. 明治時代以降

 

  江戸幕府が倒れ、明治時代になっても一部には、仏像彫刻や人形彫刻、また根付や象牙彫の彫刻が制作されていたが、明治十年代には、西洋彫刻が流入し、日本の彫刻界は、職業仏師から、芸術家としての側面が強調されてくる。

 わが国の伝統的な木彫技法を踏襲する高村光雲(こううん)らも西洋彫刻の刺激をうけ、新しい彫刻の分野を開拓した。 
 光雲門下からは米原雲海・平柳田中(ひらぐしでんちゅう)・竹内久一・内藤伸らが出た。
 長野・善光寺の金剛力士像は、高村光雲とその弟子米原雲海の合作になるもので、大正7年(1918)再建された仁王門に安置されており、原型も残されている。
 平櫛田中は、独特の感性により、人間性を追及する人物像を多く残した。仏像としては、昭和53年(1978)に東京・浅草寺雷門裏側の天竜像を制作している。天竜像と対となる金竜像は、東京芸術大学菅原安男の作である。
 象牙彫出身の竹内久一は、西洋彫刻の新しい手法を取り入れており、東京芸大の伎芸天立像は、その代表作として知られる。また、日蓮の信奉でもあったことから、モニュメントとしての仏像彫刻の分野を開拓し、鎌倉・霊光寺日蓮像(雨乞の立像)、福岡・東公園日蓮聖人立像を中心に多くの銅造を制作した。
 光雲の子高村光太郎は、若くして光雲の代作を行い、この期の最も才能に恵まれた作家である。彼は近代彫刻の精粋に肉迫し、密度の高い造型を行った。

 一方、岡倉天心によって始められた日本美術院では、仏教彫刻の保存技術、修復技術が見直され、美術院国宝修理所を中心に、新納忠之介、明珍昭男、西村公朝らによって、修理保存技術とともに、今までの仏像制作技術の研究や伝承が行われてきた。また、鋳造技術についても、金工彫金家の香取秀真などが中心となって、古代のろう型鋳造技術の研究、伝承なども行われた。昭和60年(1985)にアメリカの企業が、鋳土と密ろうの代わりにセラミックと流動パラフィンを使用した精密鋳造法の特許を申請した際に、香取秀真が中心となって、この鋳造法は古代より行われている周知の事実であると反論し、特許が不成立となったことも、古代の鋳造方法の先見性を世界に知らしめる結果となった。

 また、絵画においては、各地で日本画家による壁画や仏画などの復元模写が行われている。昭和24年(1949)に起こった法隆寺金堂の火災は、壁画の模写中の出来事であったが、これを機に文化財保護法が制定され文化財保護の気運が高まった。当時模写に携わった画家は、総監督前田青邨、安田靫彦、大塚榛山、中村岳陵など、その後の日本画壇を支えた人々であり、多くの壁画、仏画の模写、制作に携わった。 

 現代では、趣味としての仏像彫刻も盛んで、松久宗久、松久宗琳らが仏像修理や新規の造像を行う一方、仏像彫刻の彫り方を一般向けに解説し、一般の人々が趣味として仏像彫刻に取り組む素地を造った。

 

 

 

 

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