時代の特徴

7. 鎌倉時代

  寿永四年(1185)の平家滅亡から明徳三年(1393)の南北朝の合一までを鎌倉時代という。しかし、南北朝を次の室町時代に含める区分の仕方もある。また、藤原時代末期から鎌倉時代初期にかけての一時期を、定朝の様式から運慶・快慶を中心とする慶派の様式が変化していく事から、藤末鎌初(とうまつけんちょ)として取り扱うこともある。

 藤原時代の末期頃は、定朝から始まる職業仏師の流れは、京都に本拠地をもつ円派・院派、また奈良を本拠とする南都仏師(慶派)の三つに分れて派を競っていた。
 これら三派の中では、藤原時代を通じて貴族や朝廷の造仏を任されていた院派、円派が勢力を持ち、慶派は押されがちであったが、鎌倉政権の時代になると次第に慶派が台頭してきた。奈良仏師の棟梁成朝は、文治元年(1185)源頼朝の招きにより、鎌倉の勝長寿院の造像を行うなど、鎌倉幕府との結び付きを深めた。

 また、藤原時代末期には、平秀衡による南都焼き討ちにより、奈良東大寺・興福寺など多くの寺院が灰燼に帰し、天平以来栄華を誇った多くの仏教彫刻が失われたが、貴族や上皇などの意向により、大掛かりな修復が始められその復興に精力的に多くの仏師が参加した。

 その中で、早世したと思われる成朝に代わって奈良仏師を引継いだ康慶が、次第に主導権を握り、興福寺南円堂の諸像を造立するなど、藤原時代とは異なる、写実的で力強い像容の彫像を残して、後の運慶、快慶に続く慶派の祖として、鎌倉彫刻様式の基礎を築いた。
 康慶の子、運慶は、奈良円城寺の大日如来坐像を康慶の監督下で制作した他、文治二年(1186)に頼朝の義父北条時政が建立した静岡・願成就院の諸像を、また文治五年(1189)には、鎌倉幕府の初代別当和田義盛建立の神奈川・浄楽寺の諸像を造像するなど、精力的な造像活動を行い、東国武士に相応しい男性的様式を示した。
 運慶やその子の湛慶によって、建仁三年(1205)頃製作された東大寺南大門仁王像や、承元二年(1208)の興福寺北円堂の諸像にいたり、鎌倉彫刻様式の完成をみた。
 また、康慶の弟子快慶は、東大寺・重源上人の後ろ楯を受け、正治二年(1200)の和歌山金剛峯寺孔雀明王像、建仁元年の東大寺僧形(ぞうぎょう)八幡神像、承元二年(1208)の東大寺俊乗堂の阿弥陀如来像など多くの作品を残し、特に秀麗な面相の阿弥陀如来立像は、安阿弥様(あんなみよう)と呼ばれ、浄土真宗の隆盛もあって、後々の彫刻にまで影響をおよぼした。

 運慶、快慶によって完成された慶派の様式は、その子、弟子に受け継がれた。長男湛慶は、運慶の死後、慶派仏所を主宰した仏師であるが、その遺品は文献で知られる割には少ない。その少ない作例の一つである、延長六年(1254)の蓮華王院の千手観音坐像は、湛慶晩年の作で、重厚な作風を持つ像である。また、高知雪蹊寺の毘沙門三尊像保守的作風のものであるが、脇侍(わきじ)の吉祥天像は、宋朝様の著しいものとして有名である。二男康弁の建保三年(1212)の興福寺の天燈鬼(てんとうき)・竜燈鬼(りゅうとうき)、四男康勝の京都大波羅密寺の空也上人像など、いずれも重厚で力強く写実的な様式は運慶様式の浸透を感じさせるのもである。
 さらに、その次の代になると、運慶の孫に当たる康円、快慶の弟子栄快らが現れ、活動するようになる。康円の遺品としては、中野家の渡海文殊菩薩像や、奈良白毫寺(びゃくごうじ)の泰山王像などが名高く、栄快のものとしては、滋賀長命寺の地蔵菩薩像が代表作である。

 この他、慶派の仏師として、作品を残している仏師として定慶が挙げられる。定慶の師弟関係、生没年等は未詳であるが、その遺品は興福寺を中心に多く残されている。遺品には、建久七年(1196)の作である興福寺の維摩居士(ゆいまこじ)像、建仁元年(1201)より二年にかけて制作された興福寺の梵天・帝釈、また興福寺の金剛力士像などがあり、その運慶や快慶とは異なる、独自の写実的な作風が見られる。特に、金剛力士像の表現は、運慶・快慶らが関わった東大寺南大門の仁王像が筋骨隆々とした姿を表すのに対して、興福寺像は、誇張のない洗練された肉感的表現が見られるのは注目すべきであろう。
 定慶には、ほぼ同じ時代に同姓同名の仏師が知られる。肥後法橋と名乗った事から肥後定慶と呼ばれ、京都鞍馬寺聖観音立像や大報恩寺六観音像、兵庫石龕寺仁王像などが知られている。特に鞍馬寺聖観音立像の細身で女性的な表現は、慶派の多様性を感じさせるものである。 

 鎌倉時代の仏像彫刻は、慶派という一工房の様式に席巻された感があるが、慶派以外では、円派から出たと考えられる、善円、善春、善慶など善派と呼ばれる仏師の作品が知られている。奈良博十一面観音立像、釈迦如来坐像、奈良西大寺興正菩薩叡尊坐像など、張りつめた体躯の質感を丁寧に表現した像を残している。また、鎌倉大仏として知られる高徳院阿弥陀如来坐像は、延長年間(1252〜1255)に鎌倉幕府のモニュメントとして造られた像で、快慶様の秀麗な顔立ちを持ち、巨像ながら中国宋様式を敏感に取り入れた造形が注目される。
 この他、善派とも慶派とも関わりのあった、康俊その子康成が、奈良から九州にかけての広い範囲で活躍した。慶俊、慶成らは慶派の直系として多くの造像を行い、鎌倉最末期を飾る仏師として活躍した。

 鎌倉時代には真言律宗の叡尊忍性らが唱えた釈迦への回帰運動から、仏像彫刻にも復古主義が及び、前時代の彫像の模刻も流行した。特に、寛和二年(986)に 然(ちょうねん)が中国から請来した京都清凉寺の釈迦像の模刻は全国にその遺品を残し、清凉寺式釈迦と呼ばれている。西大寺本堂や神奈川極楽寺には、そのすぐれた遺品がある。また、日本初伝の像と伝える長野善光寺の如来像の模造も流行した。これは、多くは銅造で、飛鳥様式をもつ三尊像で、善光寺式如来像と呼ばれる。

 当代には、また、すぐれた肖像彫刻が造られ、特に、鎌倉時代に隆盛した禅宗では、頂相(ちんそう)と称して、開山の像が盛んに造られ、多くの優作が残されている。東大寺の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人像や良弁上人像は、快慶あるいは運慶など、当代の一流の仏師の手になるものと考えられ、まさに今も生きているような写実の極地を表わす像である。頂相彫刻としては、弘安九年(1286)ごろの和歌山興国寺の法燈国師像、神奈川円覚寺の仏光国師像(弘安九年ごろ)をはじめ、長野安楽寺の惟仙和尚像・恵仁和尚像(嘉暦四年)など、いずれも曲禄(きょくろく)に坐した姿に造られているが、それぞれの人柄や品格を感じさせる。また、鎌倉地方独特のものとして神奈川明月院の上杉重房像、神奈川建長寺の北条時頼像、東京国立博物館の源頼朝像と呼ばれている肖像彫刻がある。いずれも、強装束(こわしょうぞく)の俗形の像でこの時代より描かれだした大和絵肖像画に通じるものである

 神像彫刻には、奈良吉野水分(みくまり)神社の玉依姫や熊本藤崎八幡宮の僧形八像幡像および女神像や、静岡般若院の伊豆山権現像などがあるが、玉依姫像や伊豆山権現像などには、やはり、先の上杉重房像と同様、和様化が顕著に現れている。

 この時代の仮面彫刻としては、前代以来の舞楽面や行道面も造られた。これらの仮面の遺品には、康慶や定慶など仏師が関わったものも見られる。

 

 

 

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