時代の特徴

4. 平安時代初期

 延暦十三年(794)の平安遷都から寛平六年(894)の遣唐使廃止までを平安時代初期という。

 それまでの造東大寺司の廃止もあって、組織的造像が行われなくなり、これに飽き足らなくなっていた私造仏所での造像が多くなっていた。私造仏所での造像は財政的にもそれまでの塑像や、乾漆像、金銅仏ではなく、主として素木の木造が中心となった。また、この時代には、像自体に胎内銘を残すものが少なく、文献的にも造像の背景を示す資料も少ないため、その流れを追うことも難しい。

 この時代はその初期から入唐僧らにより法隆寺九面観音立像や金剛峯寺の釈迦および諸尊寵像(がんぞう)をはじめとする檀像など、中国の新しい仏教美術が請来(しようらい)され、わが国でも模作が流行した。また、鑑真が連れてきた工人によって天平時代後半に制作されたと考えられる、唐招提寺の伝・衆宝王菩薩立像、伝・獅子吼菩薩立像、伝・大自在王菩薩立像と呼ばれる木彫群や、奈良大安寺の十一面観音立像、楊柳観音立像、伝・馬頭観音立像などの諸像も大きく影響している。この他、盛唐文化を継承し新様式を示す造像例としては、滋賀渡岸寺の十一面観音像や京都宝菩提院菩薩半跏像がある。渡岸寺像は、五仏を表す頂上面や、耳飾りをつけるなど、外来の要素の濃い像であり、京都宝菩提院像は、複雑に乱れる衣文を見事に纏め上げた、それまでの日本の彫刻には見られない唐文化の成熟した技法が感じられる像である。

 平安時代初期彫刻の早い時期の遺品としては、延暦十二年(793)ごろまでに制作されたと考えられる神護寺の薬師如来像や新薬師寺の薬師如来像等などがある。これらの影響を受けて制作されたと考えられる像に、法華寺十一面観音立像、元興寺薬師如来立像などがある。

 これらの像は、天平時代の写実的で優美な表現とは異なり、ややもするとアンバランスな程デフォルメされた、量感に満ち、森厳で重々しい近寄り難い面相を持っている。一般的な特徴としては、荒く深い衣文線を刻み、腹前と両腿を隆起させ衣文をY字型に表すほか、衣文の一部を渦巻状に表す、渦巻文、花文と呼ばれる装飾を表す。また、衣文の襞を大きい波と小さい波を交互に表す、翻波式衣文を表すのが特徴となっている。また、頭部から蓮肉(れんにく)まで一木から刻み出された一木彫である。

 木の材質も、飛鳥時代が例外なくクスノキであったのに対し、ヒノキ、カヤといった針葉樹系の木材が使用されてきた。

 『十一面神呪心経義疏』に、仏像の用材について「(白檀を)求めて得ざればまた栢木を以て像を作るべし」とある。栢は柏とも書かれ、中国ではヒノキ科の樹木全般を指し、中国ではインド産の檀木の代わりに黄檀系には柏、赤栴檀系には清凉寺釈迦像に用いられているサクラ系の魏氏桜桃がそれぞれ当てられたと考えられる。日本では、栢は現在榧の字が用いられているいわゆるカヤがこれに当るとされ、天平時代末から平安時代初期の仏像の用材として多く使用されている。

 カヤは甘い芳香性もあり、肌合いが檀木の緻密さに及ばない点を除き、代用材としての適性をそなえている。神護寺薬師如来立像や、元興寺薬師如来立像、唐招提寺、大安寺の木彫群などが、カヤ材であることが知られている。

 またヒノキはカヤと同様芳香を持ち、彫刻表面も絹のような光沢をもち、白木として使用するのに適した材質である。日本では古くから寺院建築にも使われているように、良質の大木が多く産することから、しだいにカヤに代わってヒノキが使われるようになり、この時代以降の木彫像の用材の主流となる。

 これらの木を自由に使いこなすには切れ味の良い刃物が必要とされ、これらの刃物の製造技術の向上した事も、これらの材質の使用の流行に寄与したと考えられる。

 この時代には、空海、最澄らがもたらした正統密教の影響により、密教図像を粉本(見本)とした密教彫刻の流行も見られた。密教彫刻の初期の造像例としては、大阪・観心寺如意輪観音坐像、神護寺五大虚空蔵菩薩坐像、承和六年(839)に開眼供養の行われた教王護国寺(東寺)講堂の五大明王像や五大菩薩坐像などがある。東寺講堂の諸尊像は、空海により設計された曼荼羅(まんだら)的表現をもつ群像で、わが国の最初期の密教彫刻として貴重である。これらの像の一部には乾漆の併用がみられ、五大明王像の凄まじい忿怒相、五大虚空蔵菩薩像の深遠な面相の表現、また如意輪観音像にみられるなまめかしい美しさと共に、天平乾漆像の流れをくむ造東大寺司系工人の手になることがわかる。

 この時代には仏教文化が地方にまで波及し、東北から九州まで各地に遺品が見られるようになる。会津の地に渡り布教活動を行った徳一によって開かれた、福島勝常寺の薬師三尊像などの諸像や、胎内に貞観四年(862)の墨書をもつ岩手黒石寺薬師如来坐像、成島毘沙門堂兜跋毘沙門天立像などの坂上田村麻呂由緒の諸像、また、広島古保利薬師堂薬師如来坐像他の諸像など、地方的な特色を持った像が造られた。

 また、この時代には板状の光背に唐草文様や仏菩薩などをの美しい彩色文様を施した板光背と呼ばれる形式が、奈良室生寺の金堂諸像をはじめとして、西日本の各地に広まった。

 この時代に新しく造られた彫刻として神像がある。日本古来の神道は本来自然信仰であり、御神体の姿を彫刻に表わす事は無かったが、仏教及び仏像彫刻の盛隆に伴い、神仏混交の思想もあり、神像が造られるようなった。文献的には天平時代後半にその例が知られるが、遺品としては、平安時代に入ってから見られるようになる。

 薬師寺僧形八幡神像、神功皇后像、仲津姫像及び教王護国寺僧形八幡神像及び女神像が著名である。教王護国寺像は、東寺の鎮守八幡の御正体で、体内には自然のうろがあることから、雷等により倒れた神木で制作されたものと考えられる。その手法は、乾漆を併用しており、また、薬師寺像は衣に翻波式衣文がみられ、仏像彫刻を行っていた同じ仏師が制作に関与したことが想像される。

 

 

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