時代の特徴

2 白鳳時代

 白鳳時代は、歴史の時代区分ではなく、美術史のみで扱う時代区分である。白鳳は、元来私年号であり、孝徳朝の白雉の別称であるとされている。白鳳時代という言葉自体は明治時代から使われているが、その時代区分、および時代区分としての存在自体についても、多くの議論がなされてきた。その定義については、白鳳時代の存在を認める専門家の間でも意見が異なるが、一般的には、孝徳朝の大化元年(645)から都が奈良に移った和銅三年(710)までを白鳳時代と呼ぶ。

 白鳳時代の彫刻は天智朝(662〜71)ごろを境として二分され、その前半は、まだ飛鳥様式の名残をとどめている時代、その後半は隋・唐の様式が伝わり、次の天平時代の先駆的な様式が現れてくる時代である。白鳳時代前半の彫刻には基準作例が乏しいが、その最初の例として、法隆寺献納宝物の内、辛亥年在銘観音菩薩立像があげられる。辛亥年の解釈については、崇峻天皇四年(591)説、白雉二年(651)説があるが、形式的には止利様式を踏襲するものの、より形式化した手馴れた像容を示す点や、鋳造技術、鏨仕上げの技術も法隆寺金堂釈迦如三尊像に比して一段と進んでいることからも、白雉二年の制作としてよいものと考えられる。この他、大阪・観心寺の金銅観音立像や四十八体仏中のいくつかは、このころの制作と推定される。その特徴は、飛鳥時代に比べ、体躯にやや抑揚が出てくることである。胸が張り、胴でくびれ、腰でまた太くなる。

 白鳳時代後半の例としては、大阪・野中寺の弥勒菩薩半か思維像、興福寺の仏頭があげられる。野中寺(やちゅうじ)の弥勒像は、胴がくびれ、頭上には豊かな三面頭飾を頂く半跏思惟(はんかしい)像であもるが、台座の下框(かまち)部分に陰刻があり、天智五年(666)、柏寺(橘寺か)の知識百十八人が中宮天皇のために力を合わせて造った弥勒の像であることを伝えている。知識とは後の講のような宗教団体で、このころから仏教が一部の貴族だけではなく、かなり一般まで広がったことを示している。この像の裳のふちには連珠文(れんじゅもん)が刻まれている。この文様はペルシアに生まれ、中国には隋代に伝わったといわれ、その影響がわが国まで及んでいたことがわかる。

 興福寺の仏頭は、昭和12年に東金堂の床下から発見されたもので、平安時代の『玉葉』に記された、文治三年(1176)に興福寺東金堂衆が、山田寺講堂から奪い取ってきた丈六像に当ると考えられている。山田寺の造仏については『上宮聖徳法王帝説』に詳細な記事があり、この丈六像が、法王帝説の裏書に、乙酉年すなわち天武十四年(685)、蘇我倉山田石川麻呂の命日に追福のため開眼供養(かいげんくよう)された仏像であることが知られる。その像を鎌倉時代に興福寺の東金堂衆が奪取し、興福寺の東金堂の本尊に据えたが、これが室町時代に火災にあい、頭部だけが残り今日に及んだものである。この像は、面相も丸々として柔らかくなり、また今までの杏仁形の目から、下瞼を水平に上瞼を弓状に表した新しい感覚のものになり、内目尻は蒙古襞 (もうこへき)をあらわしている。

 この時期の像は、飛鳥彫刻の正面鑑賞性から脱却し、立体感を有し、面相や体躯も丸々とした童顔や童子形を示すようになる。また宝冠も今までの山形宝冠から正面と両耳上に分かれた三面宝冠のものが多くなり、瓔珞も連珠文を多用したにぎやかにものになってくる。これらの特色は、中国の北斉(ほくせい)・北周(ほくしゅう)や梁(りょう)・陳(ちん)等の彫刻に通じるもので、七世紀中ごろには、また新たな大陸の様式がわが国に伝わったことを示している。

 この時期の制作になると思われる像としては、法隆寺六観音立像、一乗寺観音立像、鶴林寺観音立像、橘夫人念持仏阿弥陀如三尊像、新薬師寺薬師如来立像(香薬師)、深大寺釈迦如来椅像、法隆寺夢違観音立像などがある。

 このように小金銅仏が多く見られる背景には、天武十四年(685)には、各家ごとに仏舎を造り、仏像と教典を安置するよう勅命が出たことが関係していると考えられる。家ごとと言っても個人の家ではなく、国司クラスの役人の家ごとと言う意味であろうが、この詔に応じて、家に安置するにふさわしい小像が多く造られたのであろう。四十八体仏中の童顔童身形の可憐な仏像の多くもこのころの制作と推定される。

 天智朝に入ると、百済や高句麗が相次いで滅亡し、高度の技術者が多く集団をなして、わが国に帰化してきたことは、日本の彫刻技術を著しく進歩させたものと思われる。この頃から、飛鳥以来の金銅仏・木彫の他に、乾漆像や塑像(そぞう)・仏(せんぶつ)などの新技術が加わり、いっそう白鳳彫刻を多彩なものにした。

 乾漆像や塑像は、次の天平時代に花開くが、その早い例乾漆像の遺品としては、当麻寺の四天王像及び、塑造としては、同寺弥勒仏坐像、岡寺如意輪観音坐像がある。共に、丸々とした体躯を持ち、特に四天王像は、法隆寺金堂像のように直立した姿勢とは異なり、自由な姿勢を持ち、次の天平時代に花開く乾漆像、塑像の萌芽の像としてが、注目される。

 また、石仏が造られるのもこの時代で、飛鳥時代には、明日香地方などに石人などの石造物は造られているが、石仏の遺品は残されていない。初期の石仏は渡来人によって造られたと考えられ、これらの像や請来仏を参考に日本でも造られるようになったのであろう。渡来人の制作と考えられるものに滋賀・狛坂廃寺阿弥陀三尊像がある。本像は、金勝山の中腹の巨大な花崗岩に阿弥陀三尊像を薄肉彫に現したもので、大陸的な風貌が特徴的である。また、奈良・石位寺如来三尊像、兵庫・古法華石龕仏、奈良・頭塔石仏の様に和様化された像も見られるようになる。

 白鳳時代独特の遺品としてはせん仏及び押出仏が挙げられる。せん仏は、仏像などを模った雌型に粘土を押し当て焼締めたタイル状のもので、同じ型から大量に生産できる事から、寺院の壁や床、須弥壇の側面などを装飾するのに用いられたと考えられる。彩色を施したり、金箔を置いて装飾したものもあった。せん仏を出土する寺院としては、橘寺・川原寺・山田寺・当麻(たいま)寺・壼坂寺など氏寺クラスの寺が多い。また、地方寺院でも、京都・山崎院、三重・憂見廃寺跡、鳥取・斉尾廃寺、広島・寒水寺跡、神奈川・千代田廃寺、大分県・虚空蔵寺など多くの白鳳寺院跡から出土している。

 押出仏は、雄型又は雌型の原型の上に銅板を当て、原型に沿った形に叩き出すもので、四角い板に三尊を表したものが多く、せん仏と同様に寺院の壁を装飾したものと考えられる。押出仏の中には、仏像の前面と背面を型から打ち出し、前後の型を合せて丁度ブリキの人形のように組み合わせた例もある。

 

 

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