仏像と風土

2.  東北地方

 (古代2)

 徳一
 徳一(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。父は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、徳一はその十一男と伝えられている。
  興隆する天台宗・真言宗に対抗する南都佛教側の尖兵で、20歳頃に東国へ下り、、筑波山中禅寺、会津恵日寺(慧日寺)、会津勝常寺、常陸西光院など陸奥南 部から常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝え られる五輪塔が残されている。
 近年金堂、講堂などの伽藍が再建された。
 最澄が会津滞在中の徳一を訪れた際に行われた三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)は一大仏教論争として知られている。
  徳一は人間が成仏出来るか否かはその人の素質により1、菩薩定性、2、縁覚定性、3、声門定性、4、不定性、5、無定性五段に分類し、その内1から3の人 だけが成仏できる(声門乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗)と説いたのに対し、最澄は、一切偕成(いっさいかいじょう)、すなわち全ての人が成仏できるとする(一 つの乗り物−一乗)と説いた。
 徳一が建立した恵日寺には、現在残念ながら、仏像は残されていないが、徳一が開いたとされる会津・勝常寺のの薬師三尊像をはじめとする一群の諸像は、南都仏教の流れを汲む造像例である。

 徳一の影響下で造像された像としては、次の像が代表的なものである。

○ 勝常寺 薬師三尊像
 薬師如来坐像は、平安初期様式になる像であるが、一木造から寄木造の中間に位置する一木割矧造という手法が採られている。一木割矧造は、一旦一木造で造像した後、頭部に鉈等を入れて、前後に割り放ち、それぞれに内刳を施した後、元の形に再び合わせる造像法である。
 本像は、一木割矧造の最古の例として知られている。
 像の様式としては、大粒の螺髪や意志的な目鼻立ち、肩幅や胸の厚みなど広く厚い、堂々とした像である。衣の衣文も深く大胆で粘り強く、正に徳一がもたらした中央風の平安初期様式を見事に具現している。


○ 双林寺 薬師三尊像 ケヤキ
 薬師堂の本尊。膝前を含め、頭部体部をケヤキの一木から彫出する。いかり型の肩や分厚い胸は豊かな量感を持ち、膝も厚い。
  漆は剥げ落ちて素地をあらわしており、衣文の表面のは摩滅が見られるが、左肩から腕にかけての衣文には丁寧な翻波式衣文が見られ、やはり平安時代初期の特 徴を示している。しかし、正面観は意外な程、細身で穏やかで、膝前に衣文線は細かく、形式的になっていることから、制作時代はやや遅れるものと考えられ る。東北地方でも古様を示す像として注目される。
 なお、新潟市西堀通の瑞光寺に伝わる菩薩立像が近年の調査で、作風、樹種などから,双林寺の薬師如来坐像の脇侍日光菩薩立像として造られた像であると考えられている。

慈覚大師円仁

 円仁は、延暦13年(794)下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族壬生氏の子として生まれたと伝え、生誕地は岩舟町の高平寺と壬生町の壬生寺の両説がある。
 9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。
  承和5年(838)遣唐船で唐に渡るが、目指す天台山へは旅行許可が下りず、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で 修行し、承和14年(847)に帰国した。長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥に遭い苦渋を強いられたが、帰国後、在唐9年間の紀行を日記「入唐求 法巡礼行記」全4巻にまとめ、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子など当時の中国の有り様を克明に伝えた。
 帰国後、円仁は朝廷 の信任を得、斉衡元年(854)61歳の時に延暦寺の第三代座主となり、天台密教の基礎を築いたといわれる。清和天皇に菩薩戒を授け、「金剛頂経疏」など を著したが、貞観6年(864)に71歳で没した。その2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられ、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の諡号(し ごう)を、師である最澄の伝教大師とともに授けられた。
 生誕地である栃木県をはじめ東北地方には、福島の霊山寺、松島の瑞厳寺、岩手の天台寺・中尊寺、青森の恐山円通寺、象潟の甘満寺、山形の立岩寺等、円仁が開いたと伝える名刹が数多く残されている。 


 円仁の影響下で造像された像としては、次の像が代表的なものである。

○ 慈覚大師頭部像
 平安時代 9世紀 サクラ 立石寺
  円仁は貞観6年(864)比叡山で没しているが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144)の「如法経所碑」には「大師の護持を仰いで法華経を埋納す る」という趣旨のことが書かれており、貞観6年円仁入寂のときに頭部だけは比叡山延暦寺に埋葬し、首から下はこの寺の入定窟に埋葬したと伝えられていた。
 昭和23年(1948)から翌年にかけて入定窟の学術調査を行ったところ、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見され、伝承を補強する結果となった。
 
また、最近の再調査で、この頭部像が絵画に見る円仁像に近く、円仁没後からあまり隔たらない頃に造られた、円仁の御像でであることが再確認され、国の重要文化財の指定を受けた。




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