仏像と風土

4.  関東地方(武蔵国)


 かつての武蔵国は、現在の熊谷市、深谷市、秩父市から埼玉県の大部分と川崎市、横浜市までを含む、一都二県にわたる広大な国でした
 古代においては、関東以北は蝦夷として扱われていました。しかし、千葉県市原市の稲荷台1号墳や埼玉県行田市の稲荷山古墳からは銘文が象嵌された鉄剣が発見されています(稲荷山古墳の鉄剣には辛亥(471)の銘があります)。
  また、千葉県印旛郡栄町にある龍角寺岩屋古墳は、築造年代は古墳時代終末期の7世紀前半または7世紀中ごろで、この時期の方墳としては全国最大級の規模で あり、古墳時代を通しても5世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の舛山古墳に次ぐ、第二位の規模の方墳です。
 これらのことから、7世紀中葉には、既にこの地に本拠をもつ大和王権に関係の深い豪族存在したことを示しています。
 7 世紀に入って中国に唐王朝が成立すると、朝鮮半島、日本にも大きな影響を与えるようになります。日本は百済の要請に呼応して唐・新羅連合軍と戦いました が、663年に、白村江の戦いにて破れます。これに前後して、中国・唐王朝の勢力に押されて、朝鮮半島の騒乱期に朝鮮半島から多くの渡来人が日本各地に流 れてくると、大和朝廷は彼らに関東の開発地を与えて住まわせました。これらの渡来人の中には高官や技術者などがおり、渡来人の持つ高い文化や技術が関東地 方に根付いていたと考えられます。
 渡来人が多く移り住んだと考えられる地域には、高麗郡(日高町)、新座郡(にいくら)(新羅郡)新座市など関連する地域の名が残されています。

 歴史上の出来事としては、日本書紀、続日本記などによれば、次のような出来事が記録されています。
660年(斉明天皇6年):唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が攻め滅ぼされた。
663年(天智天皇2年):日本軍が、唐・新羅連合軍によって白村江の戦いにて破れた。
666年(天智5年):百済人男女2千余人東国移住
684年(天武13年):百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す
687年(持統元年):高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住。高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住
716年(霊亀2年):駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移す。高麗郡の設置
733年(天平5年):埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える
758年(天平宝字2年):日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移住、はじめて新羅郡をおいた。新羅郡の設置
760年(天平宝字4年):帰化新羅人131人を武蔵国に置く
などです。

また、和銅元年(708)に秩父郡で自然銅(和銅)が発見されて年号が改元され、その後相模、武蔵、下総と経由する東海道が整備されるなど、中央との結びつきは更に深まっていきました。

  このような背景のもと、武蔵国には調布市・深大寺銅造釈迦如来像、横浜市・銅造松蔭寺如来像などをはじめ、多くの白鳳時代の仏像が現存しています。特に深 大寺釈迦如来像は、少年のような優しい顔立ちを持っており、関東地方では千葉県・竜角寺の薬師如来像(頭部のみ白鳳時代)と並ぶ白鳳仏の名作として知られ ています。

 天平時代には、国家事業として奈良を中心に東大寺の大仏など多くの造像が行われましたが、関東地方にはほとんど残されておらず、わずかに栗山観音堂の如来坐像(茨城県・木心乾漆造)と、近年発見された龍華寺菩薩坐像(横浜市・脱乾漆造)がその様式を伝えるのみです。

 栗 山観音堂の如来坐像は、大まかに削った木の表面に漆の練り物(木屎漆)を盛り上げて仕上げた、木心乾漆造と呼ばれる像です。現在は、木心と木屎漆の断片を 残すのみですが、木心だけでも悠然としたおおらかさを持っており、関東地方でも中央の造像と同じ手法で仏像が制作されていたことがわかる貴重な例です。

  平安時代に入ると、最澄や空海により中国から手や顔がいくつもある多面多臂像など、新たな様式の像が請来され、国家事業であった天平とは異なる、個性豊か な像が造られるようになります。しかし、やはり国家のための宗教という面が強く、関東地方でこれらの像が造られ始めるのはやや時代が下ってからになりま す。この時代の像として、箱根神社(神奈川県箱根町)の万巻上人像が知られています。その異形ともいえる顔立ちは内面から出るエネルギーを感じさせます。

  また、関東地方の特殊な例として、像の表面を平滑に仕上げず丸鑿の痕を残し彩色も施さない、鉈彫と呼ばれる像が現れてきます。これは信仰の対象として金箔 や極彩色で彩られるべき仏像としては亜流の様式と言えますが、関東の風土に合ったらしく、弘明寺(横浜市)の十一面観音立像をはじめとして、日向薬師(伊 勢原市)の薬師三尊像など、関東及び東北地方に広く流行しました。また最近では中部、北陸、近畿、中国地方にもその例が報告されるなど、関東から全国に影 響を与えた珍しい例といえます。

  平安時代中期になると、阿弥陀信仰の流行に伴って平等院阿弥陀如来坐像(京都府宇治市)に代表される定朝様式の像が、阿弥陀信仰の広がりによってこの地方 でも多く造られるようになります。 特に多くの寺院があった多摩川流域を中心にかなり早い時期から見られます。その代表的なものは、安養寺(日野市)の阿 弥陀如来像で、細部の手法も優れ、都内屈指の優秀な作品です。

  鎌倉時代に、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、頼朝は、穏やかで耽美な定朝様を引き継いだ院派や円派ではなく、奈良を中心に活動していた運慶や快慶など慶派の 仏師を重用します。特に運慶は脂の乗り切った時期に鎌倉幕府の下で多くの造像を行っており、質実剛健で力強い慶派の像が武家社会の好みに合い、受け入れら れて全国に広まりました。運慶や快慶が制作した像は、武蔵国には残されていませんが、三浦半島、伊豆半島、千葉市などにその遺品が見られます。
 運慶、快慶によって完成された慶派の様式は、その子・弟子に受け継がれ、世田谷山観音寺には運慶の孫に当たる康円が制作した不動明王八大童子像が残されています。このほか、港区・増上寺阿弥陀如来立像など慶派の作例も多く残されています。

 また、関東地方の特異的な例として、鉄仏が挙げられます。

 現在鉄仏は全国に約50体現存しますが、現存する像のほとんどは鎌倉時代以降の制作で、関東地方に多く残されています。
  鉄は、銅に比べて硬くて衣文などの細部の鋳造がむずかしく、また錆びやすい材料であるため、仏像の材料として適した素材ではありません。それにも関わらず 鉄仏が鎌倉時代に関東地方で流行したのは、刀に代表されるように一番堅い金属であった鉄に対する信仰と共に、鉄仏の持つある種の荒々しさが、武家社会の好 みと合ったためでしょう。また鉄仏は愛知県尾張地方にもその作例が知られています。武蔵国の鉄仏の作例としては、大観音寺(中央区人形町)の菩薩像頭部 (頭部だけで168cm)、善明寺(府中市)阿弥陀如来坐像などが知られています。

 江戸時代に、現在の東京に幕府が移されてからは、寛永寺や増上寺が建立され造像活動も盛んになり、いわゆる江戸仏師と呼ばれる仏師たちにより多くの仏像が造られましたが、前時代を踏襲した様式の像が多くなってきます。

 江戸時代になっても運慶の名声は衰えず、運慶以来の正系仏師の康猶(こうゆう)が、徳川秀忠の寿像や日光東照宮の釈迦・大日・多宝如来像等を造立するなど活躍しています。
 また、僧籍にありながら、精力的に造仏を行った、珂碩(かせき)上人や宝山湛海(たんかい)、松雲元慶(げんけい)など出て、異色の力強い像なども造られました。

 




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