仏像と風土

6.  北陸地方

  北陸地方の本来コシの国と呼ばれ、古代には、朝鮮半島から多くの渡来人が日本海の潮流や季節風に乗って渡ってきました。
 特に、3世紀から4世紀前半頃には、対馬暖流を媒体として、古代における中国大陸からの文化の伝播が、朝鮮半島を経由して山陰地方や北陸地方に広まりました。
 現在、朝鮮半島に多く残されている方形墳と同じ形の方形墳が、出雲地方や北陸地方に多いことからもわかります。
 6世紀に入ると、朝鮮半島との交渉は大和朝廷が中心となります が、当地では並行して独自の接触があったものと考えられます。これは、北陸地方が西の愛発峠、南の砺波山、東の親不知の断崖と、三方 を山並みで囲まれて いて畿内と隔離されていたことによるのかも知れません。 特に北陸地方に於いては、飛鳥時代まで遡ると考えられる小金銅仏の例が見られます。

 奈良時代に入ると、加賀、越前、美濃の国境に聳える白山が、養老元年(717)僧・泰澄(たいちょう)によって開かれ、古来死者の入山する霊山として信仰されます。
 白山は、四季の大半が白雪に覆われ、古くから祖霊の宿る聖域として、人々の素朴な崇拝の対象であり、手取川(石川)、九頭竜川(福井)、長良川(岐阜)、庄川(富山)の源流として、里人に豊かな水の恵を与えてくれる神々の座でした。
 平安時代には、主峰の御前峰(ごぜんがみね)、大汝峰(おおなんじがみね)、別山(べっさん)の白山三所権現の信仰が定着し、白山は次第に修験者の山岳修行や神仏習合に彩られた霊場へと発展していきます。
 これに応じて、9世紀中ごろまでに、白山登拝の起点となる遥拝地、加賀馬場(ばんば)、越前馬場、美濃馬場の三馬場が開かれました。

 平安時代中期以降、加賀馬場の中心は白山比神社(白山本宮)から別当寺の白山寺に、越前馬場は平泉寺、美濃馬場は長滝寺に実権が移っていき、平安末期には三馬場とも天台宗延暦寺の末寺となりました。
 三馬場は以来、それぞれ独自の歴史を歩み、それぞれに盛衰を繰り広げながら、白山信仰を全国に広めていき、白山神社は現在、全国に2281社を数えます。

 また、富山県の立山三山(雄山・浄土山・別山)を中心とした立山信仰は、奈良時代の佐伯有頼による立山開山伝説を発祥として、古くから立山修験道の山岳信仰の場であり信仰の対象でした。
 立山浄土の世界では、立山三山、なかでも雄山が、阿弥陀浄土とされ代々重視されて来ました。立山山麓には、芦峅寺(あしくらじ)や岩峅寺(いわくらじ)をはじめとした信仰の拠点であり、宿坊を兼ねた宗教的な村落があり、それらを中心に勧進が行われていました。

 近世に入ると、御師(おし)と呼ばれる人々が全国を回って立山縁起を図解した立山曼荼羅の絵解きが行われ、立山信仰が全国に普及し、修験者だけでなく庶民も盛んに登拝するようになります。
こ の御師たちの全国行脚が越中富山売薬の基礎を作ったと考えられています。
 また、女人禁制であった当時は、入峰を許されない女性のための布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という行事が芦峅寺で盛んに行われました。
 布橋大潅頂とは、女人禁制の立山で、中世以来行われてきた女人 救済の大行事で、秋の彼岸の中日、閻魔堂から布橋を渡り姥堂までの道に、白布が三列に張り巡らされます。大潅頂を受ける女人は白い死装束を纏い、目隠しを して閻魔堂から白布の上を歩き、此岸と彼岸を結ぶ布橋を渡ります。橋を渡るとき、心の悪いものは橋から落ちるといわれ、渡り終わると彼岸に着き姥堂(うば どう)に入ります。
 堂に入ると扉が閉められ、真っ暗闇の中で一心に経を読み、もう ろうと陶酔状態になったころを見計らって、扉が開けられると、暗黒にわかに光明に転じ、真正面に眩しいまでの雄山や浄土山の神々しい姿が仰ぎ見えたとき、 女人たちは、阿弥陀浄土の立山を拝し極楽往生の歓喜に浸ったといいます。

 このほか、高賀山を中心とする高賀山信仰も盛んになりますが、 平安時代中期以降は、白山信仰の影響が色濃くなって、十一面観音(白山比盗_)を本地仏と定めた十一面観音信仰や牛頭天王信仰、密教に影響を受けた大日如 来信仰、虚空蔵菩薩信仰が入ってきて、各種の尊像が残されました。特に夥しい数の懸仏が奉納され、現在も数百面の懸仏が残されています。 


 古代に大陸からのの影響下で制作されたと考えられる像には、次のものがあります。


○ 新潟県 関山神社 金銅菩薩立像
 火中して大きく傾き細部を失っていますが、古代微笑をたたえた面長な面相、杏仁形の眼、わらび手の垂髪、天衣・宝飾の形など、法隆寺夢殿・救世観音立像に近い飛鳥時代の特徴を備えています。
 また、眉に線刻を入れる点などから、朝鮮半島からの渡来像と考えられます。

○ 船形山神社 金銅観音立像

 像高15cmの小さな像ですが、花型宝冠など北魏時代の特徴を残しており、欽明天皇朝頃(6世紀中頃)に朝鮮半島で制作され、日本への仏教公伝以前に渡来人によってもたらされたものと思われます。
また、頭や背中に残された柄から察すると一光三尊像の左脇侍だったと思われます。
 この菩薩像は、普段は船形山中の洞窟(場所は秘匿)に安置されており、毎年一回の例祭の時にのみ神職がそれを取り出して、主祭神の本地仏として祠で開帳されます。

○ 能登国分寺 金銅如来三尊像
  その本尊は、内陣奥の素朴なお厨子に安置される銅造鍍金の薬師三尊(国重要文化財)の小金銅仏です。
 中尊は宣字形台座とよばれる古式の裳懸座に結跏趺坐した薬師如来像で、像高19cmの像です。また左右の脇侍菩薩立像は、蓮池を想像したと考えられる中尊の台座の下框の部分から、S字状に伸びる茎先の蓮華座に立っています。
 薬師如来は厚い法衣を、通肩とよばれる着衣で両肩を覆い、胸元を大きく開け、台座前部に裳を長く垂らした古様です。
 脇侍像はいずれも三面宝冠を項き、同形の胸飾りをつけ、衣制をはじめ二重にかけた天衣も共通しています。猪首の頭部は、体躯に比べて大きく、韓国国立慶州博物館の三花嶺の弥勒三尊石仏(七世紀)を想い起こさせるなど、様式的に新羅仏との共通点があます。
 蓮池から伸びる蓮華座にそれぞれ本尊と脇侍を乗せる形式は、法隆寺金堂の釈迦三尊像や、献納御物四十八体仏の内(244号像)山田殿の刻銘をもつ阿弥陀三尊像、法隆寺橘夫人念持仏など、飛鳥・白鳳時代にみられる形式です。

 白山信仰、立山信仰、高賀山信仰に関わるものとしては、明治の廃仏毀釈で多くの仏像が打捨てられたことから現存するものは多くはありませんが、次のものが挙げられます。

○ 日石寺 不動三尊像 磨崖仏
 大きな一枚岩に薄肉彫された磨崖仏ですが、両目を大きく見開き目を怒らせ前方を睨む表現は、立体彫刻を越える強烈な迫力を感じさせます。
 ノミ痕をはっきり残し、鋭いノミの打ち込みを明瞭に感じさせる荒彫り表現は、彫技の巧みさというより、一刀入魂の訴える力を表現した像で、修験者や信仰者を虜にしたことがよくわかります。
 不動三尊像の制作年代は平安中期、不動三尊像の間に彫られた阿弥陀如来坐像と僧形坐像は平安時代後期の追刻とみられます。
 この磨崖仏は「立山曼荼羅」の景観を呈するとも言われる。不動三尊は、立山剣岳の神スサノオノミコトの本地仏、阿弥陀如来は立山雄山の神イザナミの本地仏ともいわれています。

○ 銅像男神立像 鎌倉時代 寛喜2年(1230)造
 台座に長文の刻銘があり、寛喜2年庚寅(1230)に立山頂上の御神体として造られたものと考えられます。
 峰の本社は、岩場の頂上建てられた小さな祠で、神像も鍍金は剥げ立山地獄から出る硫黄ガスで、像の表面が硫化してしまっています。
 筒形冠を頂き、袍衣をつけ、靴をはいて立つ像高49cmの像で、鋳像法は胴体と腕を別々の型でおこし両肩を蟻柄で組み合わせる寄せ鋳きという手法が用いられています。
 この像は、数奇な運命を辿っています。明治の神仏分離、廃仏毀 釈の際、仏像と間違えられて山から下ろされ、永らく行方知れずでした。それが昭和17年になって、愛知春日井の真宗寺に安置されていることがわかり、昭和 42年7月末に富山県が買い戻して約百年ぶりに富山県に戻りました。
 
真宗寺に安置されていた経緯は、当時の住職の祖父が明治のはじめ、富山駅前の古道具屋から他の金銅仏二躯と共に買って寺に安置していたそうです。

○ 那智新宮神社 金銅虚空蔵菩薩懸仏他 
 那智新宮神社重要文化財に指定されている、虚空蔵菩薩の懸仏は、鋳造された銅造虚空蔵菩薩像を鏡に取り付けたもので、正嘉元年 (1257) の銘を持ち、仏像そのものとしてみても十分に鑑賞に耐えうる像です。
 金銅地蔵菩薩坐像は、 背面二カ所に突起があり、懸仏として造られたと考えられる像で、当社御神体として伝えられています。この他、懸仏は現在残っているだけで、247面を数えます。
 懸仏の他にも、板光背を背負う素朴な木彫像や精緻な彫りを見せる女神像、蔵王権現像、自由な表現を見せる神像、大型の金銅大錫杖頭等、この山中まで伝わった神仏混交の歴史を十 分に感じさせる遺品でが残されています。
 那比新宮神社は、藤原高光が勧請した高賀信仰六社の一つ。平安時代末期より鎌倉時代にかけて、特殊な信仰形態をとりながら広く民間の信仰を集め、高賀巌屋(いわや)新宮と称し、仏像を本尊として祀るなど、明治以前の神仏習合の形を今に残しています。

○ 射水神社 男神像

 本像は、ケヤキの一木彫、両手両足と膝前はほぞで結合してあったが今はなくなっていますが、面貌、上体がこちらに迫って来るような迫力を持っています。
表面に荒い丸鑿の痕を残す、いわゆる鉈彫像です。通常の鉈彫は日 向薬師や天台寺聖観音のように、顔面がきれいに平ノミで仕上げられ、衣や体部が丸ノミの縞目模様が残されますが、この男神坐像は、顔面が鉈彫りで、体躯は 平ノミで平滑に仕上げています。また鉈彫りの頭部が大変丁寧で巧みに彫られているのに、体部はかなり荒く、また背面の彫りは極めて簡略かされています。
 しかし、顔を縞目にすることによって、荒々しい神威を増すという効果が十二分に発揮されています。





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