仏 師

13.  善円・善慶・善春 (ぜんえん・ぜんけい・ぜんしゅん)

特異な煌めきを放つ善派

  鎌倉時代の仏像彫刻は、慶派という一工房の様式に席巻された感があるが、慶派以外では、円派から出たと考えられる、善円、善春、善慶などの仏師の作品が知 られており、その名に善を用いるところから善派と呼ばれている。善派の仏像は慶派の諸像にみられるような激しさはなく、面相も体つきも衣文もやさしく女性 的で、張りつめた体躯の質感を丁寧に表現した像が多い。


 善円(1197〜1256)は、南都の諸寺で活躍し、幾つかの遺作を残しているが、いずれも小品ながら、堅実な彫技を示している。

  善円が知られるようになったのは、昭和三十年に奈良西大寺愛染堂の秘仏、愛染明王像が善円の作であることが確認されてからである。本像は秘仏である為保存 がよく、当初の華麗な彩色や切金文様、金銅製の装身具、持物、光背、台座に至るまでよく残されている。小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の一つといっ ても良い。
 本像の像底から内刳りした体内部に、木製六角経筒に納めた多数の納入品が納められていたが、このうちの瑜祇経奥書等に、宝治元年(1247)八月に叡尊が大願主、叡尊の弟子範恩が大檀越(だんおつ)となって、仏師善円が造立したことが記されている。
  叡尊は嘉禎四年(1238)に西大寺に還住してから、正応三年(1290)に没するまで、西大寺の造営・造像と戒律の復興に邁進したが、本像は、同寺復興 に取り掛かった初期に、最初の仏像制作の事績として貴重である。
寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊で あり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたと言い伝えられている。
 東大寺指図堂旧蔵の釈迦如来坐像も、その膝裏の墨書によって善円が海住山寺で嘉禄元年(1225)に制作したことが確認されている。本像は螺髪、目、唇も他は彩色を施さない素地で、解像度の高い肉質表現や仕上げの鑿の音まで聞こえそうな素木の木肌が特徴的な像である。
 善円の銘を持つ像としては、この他、承久三年(1221)銘の十一面観音立像(奈良国立博物館所蔵)、及び貞応二年(1223)から嘉禄二年(1226)にかけて造像された地蔵菩薩立像(米・アジアソサエティ美術館所蔵)が知られている。
  十一面観音立像は、像内及び納入経に承久3年(1221)の年紀と仏師善円の名が記される。現在は後補の漆箔に覆われており、細かな彫り口が損なわれてい るのが惜しまれるが、均整のとれた体躯や切れ長の目、小ぶりで愛らしい鼻や口元、やや複雑で柔らかで丁寧な衣文を持つ着衣など、ほぼ同時期の作例である地 蔵菩薩立像と極めて似た作風を示している。像内銘記や納入経奥書より、出離生死や法界平等利益などを祈願して、多数の結縁によって本像が造られたことがわ かるが、その内容や人名にも地蔵菩薩立像の銘文と共通点が多い。

 更に、近年発見された薬師寺
の地蔵菩薩立像は、像内納入の願文に、延 応二年(1240)に東大寺の僧俊幸が施主となり、仏師善円が造立し、彩色を仏師円慶が担当した事が記されているが、納入品などから、善円は延応二年に四 十四歳であり、生年が建久六年(1197)であることが判った。その生年が、かつては善円の後継者と見られていた善慶と一致することや、本像の面相が、像 内胸部に「修補大佛師法橋上人位善慶」の墨書銘を持つ大和郡山市西興寺の地蔵菩薩像に酷似していることから、善円、善慶は同一人物と考えられるようになっ た。

 善慶時代の像としては、建長元年(1249)小仏師を率いて造像した西大寺本堂の清凉寺式釈迦如来立像のほか、建長七年正嘉元年(1257)の間には興正菩薩叡尊発願の奈良般若寺の丈六文殊菩薩像が知られている。さらに奈良西興寺の地蔵菩薩像を修補している。
 また、同名異人の可能性はあるものの、兵庫正福寺の阿弥陀如来坐像は、建長元年(1249)の善慶制作銘を有し、叡尊の高弟忍性が開いた神奈川極楽寺の釈迦如来坐像は縁起に建長四年(1252)に善慶が造像したことが記されている。
 鎌倉初期の鎌倉新様式の基礎に立ち、繊細なまでの鋭い刀の冴えを表わす独自の作風は、善円時代の作品にも、善慶時代の作品にも共通して認められる特色である。


  善春は善慶の子である。鎌倉後期に活躍し、大仏師法橋となった。興弘長三年(1263)に叡尊の意を受け、般若寺の文殊菩薩像の塑造獅子座を父善慶の跡を 継いで制作した。また、文永五年(1268)には奈良元興寺極楽坊の聖徳太子像を、建治二年(1276)には摩訶伽羅(まかから)像(現存せず)を造り、 また弘安五年(1282)には奈良額安寺の虚空蔵菩薩像を修理したことが知られている。

 しかしながら、善春の代表的な作品は、弘安三年(1280)に春聖・善実・尭善などを率いて造像した奈良西大寺の興正菩薩叡尊(こうしょうぽさつえいそん)坐像であろう。
  興正菩薩坐像は、西大寺中興の祖・叡尊が80歳を迎えた弘安3年(1280)、弟子たちが報恩謝徳のために善春に造らせた寿像である。長く垂れた眉毛、太 い鼻、あるいは一文字の口元などの風貌はきわめて写実的で、実在の人に接しているような気迫を感じさせる傑作である。西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内に は多数の納入品が納められているのが特色であるが、中でもこの像には叡尊の自誓受戒記や父母の遺骨など、その生涯における記念的な品々のほか、叡尊に帰依 した多数の弟子達の結縁を物語る願文はじめとするおびただしい資料が納入されていた。
 叡尊に付き従い、その意により多くの造像を行った善派仏師としての記念碑的な像といえよう。

  善派の造像の特徴は、小気味よいまでに繊細で弾力性に富む肉質表現にあり、慶派が主流であったこの時代にも、特異な煌めきを放っている。
また、その後の 影響は、東国において、極楽寺や神奈川・称名寺の諸像に大きく影響を与えたと見られるが、鎌倉彫刻全体から見れば、当時中国から流入した宋様式の流れの中 に取り込まれていったと考えられる。


 


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