仏 師

15.  椿井仏師 (つばいぶっし)

奈良の椿井の仏師たち
 椿井仏所は、十四世紀中ごろ以降慶派から分かれ、奈良を中心に活躍していたと考えられ る仏師集団である。仏所名の椿井は、仏師の住いが興福寺の椿井郷にあったことに由来し、応安元年(1368)に春日神宮寺の十一面観音像の修理を椿井舜覚 坊慶秀(しゅんかくぽうけいしゅう)が行ったと記録されるのが初見である。
 慶秀の造像活動は、春日神宮寺十一面観音像の修理が最も古いが、これ以後応安八年に弟子舜慶・湛誉(たんよ)らとともに造像した法隆寺護摩堂弘法大師坐像、応永年中(1394〜1428)には慶実とともに興福寺南大門金剛力士像を造像したことなどが知られている。

  舜慶は、慶秀の弟子のなかで傑出した仏師である。康暦二年(1380)に法隆寺護摩堂不動明王の両脇侍、矜羯羅・制多迦の二童子を造像したことが矜羯羅童 子の台座裏墨書銘によってわかる。また永徳四年(1384)の同寺絵殿聖徳太子像の修理や、二十八歳の時に制作したことが明らかな奈良品善寺(ひんぜん じ)の薬師如来坐像などが残されている。この他、「永和四年(1378)南都津波居作」の墨書銘で知られた広島浄土寺の騎獅文殊像も、椿井仏師の作として 注目される。

 春慶(〜1499)は、椿井仏所のなかにおける数多い仏師の中で、最も知られた仏師である。彼は南都住舜覚坊春慶と称し、 現存する作品のなかで最も古い像が、長禄三年(1459)銘のある法隆寺宝珠院五髻文殊菩薩像である。この像を奈良般若寺艦文殊菩薩像(康俊・康成作、 1324)と比べると、面相のきびしさがなくなり、童子に似た柔和な童形の表情に変っている。またよく残された彩色は、南都絵所の常陸定清が携わった旨、 台座裏に墨書されている。
 春慶は寛正四年(1463)二月法橋に叙せられ、この年釈迦如来像や興福寺大乗院大黒天像、同七年に毘沙門天像、奈良 元興寺金堂丈六弥勒像を造像している。また文明五年(1473)には奈良多武峰妙楽寺講堂の阿弥陀三尊像、同七年の奈良春日本地仏の釈迦、薬師、地蔵、観 音および文殊像などを造像した。明応五年(1496)十月に法眼に叙せられ、この年に弘尊・弘慶・尊春らを率いて、焼失した奈良長谷寺本尊十一面観音立像 の造像に携わった。しかしそれも失われ、同寺の現在の本尊は天文七年(1538)東大寺仏生院実清の造像によるものである。

 椿井仏師の なかには時代は異なるが、大仏師法橋舜慶とよばれる舜慶がもう一人いる。この仏師は奈良慈明寺十一面観音立像を文亀二年(1502)に造像したことが知ら れており、この像は面相が豊満で、その上彫りも深く、森厳さを漂わせた顔立ちをもつ。右手にかかった天衣の端が突出しており、珍しい作例である。

  このほかにも、成慶・清慶・集慶、さらに椿井丹波公・椿井次郎・椿井式部らの仏師の活躍が知られている。成慶は唐招提寺の中興開山、大悲菩薩覚盛(かく じょう)坐像を応永2年(1395)を造像している。やや形式化は見られるもののその巧みな写実的表現は、覚盛の人がらを彷佛とさせている。成慶は銘記の 中に「康慶法眼之流」と記しており、慶派の直系であることを自称している。この時代には開山や高僧、あるいは貴人などの面影を後世に伝えるための肖像彫刻 が、禅宗の影響で、曲禄(きょくろく)にかけた禅僧の頂相彫刻とともに盛んに造られた。そうした中で覚盛坐像は、肖像彫刻の傑作の一つに数え上げられる。 他に応永六年ごろ、興福寺中門の二天像を造像している。

 多数の仏師を輩出し、奈良を中心に多くの遺作を残した椿井仏所も、春慶が没してからは目立った遺品も無く、その後隆盛をみた宿院仏師たちにその主役の座を明け渡すことになった。

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