仏 師

16.  仙算(せんざん)と宿院仏師

寄木造りの宿院仏師
 十五世紀から十六世紀初期にかけて南都を中心に造仏活動を行っていたのは、奈良海龍王 寺地蔵院仙算(せんざん)や東大寺大法師実清(じっけい)であった、彼らは僧籍にありながら初めは余技として仏像の修理を手がけてきたが、いつしかその器 用さを活かして仏師として活動していたことが遺品からわかる。
 その仙算や実清に付き従って造像を助けたのが、宿院仏師と呼ばれる一派である。彼 らは正統の仏師系図に載らぬ番匠出身の仏師集団で、番匠は主として建築や土木関係の木材工事一般に携わる工匠をさすが、順番で交代に工事に当ったことから 番匠とよばれるようになった。宿院仏師の場合は、仏師のもとで仏像の素材を割ったり、あるいは各部の組み合せ、木寄の仕事に携わっていたことから木寄番匠 とも呼ばれている。宿院の名は、現在の奈良市宿院町あたりを本拠としていたことに由来している。
 仙算の名が最初に見られるのは、明応七年 (1498)の奈良白毫寺司録坐像の修理銘であるが、このときすでに番匠宿院(ばんしょうしゅくいん)源次郎らがその修理に参加していることが知られる。 また永正元年(1504)の西大寺大黒天半跡像造像にあたっては、宿院七郎太郎が参加している。その彫り口はまことに大ぶりで、木寄の手法は宿院仏師が木 寄番匠として参加しているためか、専門仏師とは異なった味わいを出している。
 宿院仏師として本格的に活動を始めたのは、源四郎とされるが、仙算 が永正十一年(1514)に造像した西大寺地蔵菩薩立像には宿院源四郎が番匠として参加している。この像の体内からは、彫り損じの地蔵の頭部が発見された ほか、造像結縁の由来などもわかった。その豊満な面相、衣文の彫り口などは、これ以降の宿院仏師の手本になった像であると推定される。
 仙算の没 後、宿院仏師たちは、東大寺良学房実清(1472~1555)の造像にたずさわり、仏師集団としての地位を高めていった。実清は東大寺二月堂修二会に練行 衆として参篭した堂方であるが、永正13年(1516)東大寺上之坊十一面観音立像を造立したのをはじめとして、僧侶としてよりはむしろ宿院仏師誕生に係 わった仏像制作者としてその名が知られている。
 実清はその後、享禄四年(1531)に奈良西念寺十一面観音菩薩立像、その翌年に奈良東田薬師堂 薬師如来坐像を制作しているが、共に像内の銘文により宿院源四郎・源次を助作者として制作されたことが分かる。共に、目尻がつり上がり鼻梁の太い人間臭い 顔を持つが、東大寺上之坊像に比べると作風は平明で、より手慣れた彫技を見ることができ、作者実清よりはむしろ源四郎、源次等の助作者の果した役割が大き かったものと思われる。
 源四郎以降、その名に「源」の字を冠しており、二代目源次、その子息源三郎、源四郎、源五郎、有千代丸等、三世代にわたって南都一円に造像活動を行い、現在、合計70件余りの仏像を残している。
 全体の作例を通して共通した特徴は、ヒノキ材を使った素木の寄木造であることが注目される。面相は目鼻立ちのはっきりした柔和な表情をしており、体躯の肉どりも的確である。
 これらは、当時の正統の造像様式とは異なった南都の風土から生まれた様式とも見られる独自の様式を見せている。
  現在知られている宿院仏師としての造像の最も古い像としては、天文十三年(1544)源次が制作した、奈良・釈迦堂釈迦如来坐像、天文十四年(1545) 源三郎が制作した、東田薬師堂の薬師如来坐像と同年に空阿(源次)・源二郎が制作した同じ薬師堂の釈迦如来坐像などが知られている。 これらの像容は、さ きに実清が造像した薬師如来像と実によく似ており、宿院仏師の作品全体に共通している。
 また、宿院仏師の系譜がわかる貴重な遺品として、天文十 七年(1548)制作の西光院地蔵菩薩半脚像と弘治三年(1557)制作の奈良楢原(ならはら)薬師堂の薬師如来坐像がある。西光院像はその銘文により源 三郎は空阿弥の子であることがわかる。楢原薬師堂の像はさらに詳しい銘文があり、この銘文により、源次は源衛門とも称し、源四郎、源五郎、有千代丸が源次 の子であることが知られる。



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