仏 師

6.  明円 (みょうえん)

優美な作風を残す円派仏師
 明円は藤原時代末から鎌倉初期にかけて、京都・ 奈良を中心に活躍した仏師で、南都仏師系譜によれば、長勢−賢円−忠円−明円と連なる由緒ある円派の直系仏師である。
 明円は治承四 年(1180)、平重衡による南都焼打ちののち復興を試みる興福寺でも、その中心をなす金堂の造仏を手がけており、院派の院尊と並んでこの時代を代表する 名匠であったことが知られる。
 まず、仁安元年(1166)九月故摂政近衛基実の法要のため造仏を行い、等身の阿弥陀如来像と、各三 尺五寸の観音菩薩像・不動明王像の三躯を造ったが、これにより明円は法橋位に叙せられた。ついで承安四年(1174)二月の蓮華心院での造仏では法眼にす すんでいる。蓮華心院は、八条院障子(しょうし)内親王の発願により、御室仁和寺の常磐林(ときわばやし)あたりに建立された寺院といわれる。
  安元二年(1176)四月には、藤原経房発願の三尺の阿弥陀如来像を造る。この仏像は経房が「百年臨終の時、迎接(ごうじょう)に預かるため」に造らせた ものといわれている。明円はまた、安元二年(1167)十一月から翌年にかけて、嵯峨大覚寺の五大明王像を造っている。これが明円の今日残る唯一の遺作で あるが、この中の金剛夜叉明王像と軍荼利明王像との台座裏に制作時を墨書した銘があり、さらに制作場所が七条殿御所と記されており、この点からも極めて貴 重である。
 中宮建礼門院(けんれいもんいん)徳子の安産を祈願して治承二年(1167)十月からはじまる造仏でも明円は多くの仏像 を受けもっている。内大臣平重盛が発願した六観音像、後白河法皇発願になる等身の不動・大威徳両明王像、白河殿平盛子による不動明王像、白河殿の女房冷泉 局による千手観音像、内大臣重盛の薬師如来像および不動明王像など、いずれも明円の手になったものである。
 かく多数の造仏をみた建 礼門院の出産とは、十一月十二日に誕生する安徳天皇、すなわち、のちに平家一門と南海に命運をともにする悲劇の帝であり、平家の期待を一身に集めた出産で あったことが推測され、多くの仏師が動員されるが、明円の造仏はその中心的なものであったこともうかがえる。
 治承四年(1180) 八月には、右大将藤原良通夫人の病気平癒を祈って不動明王を造っている。
 寿永元年(1182)十一月には、故皇嘉門院藤原聖子の周 忌法事のため半丈六の仏像を造り、女院の墓のある最勝金剛院にこれを安置した。
 次は明円の事蹟中最も重要な興福寺金堂の造仏であ る。興福寺は治承四年十二月二十八日、平重衡の兵火によって東大寺とともに一山灰燼(かいじん)に帰した。建久二年(1191)五月から再建にとりかか り、建久五年九月の落成供養まで明円が金堂を、院尊が講堂の諸仏を受持って造仏が行われた。明円が造った金堂内の諸仏は今日不明なものが多いが、丈六の本 尊釈迦如来像、脇侍の薬王・薬上両菩薩像、二組の十一面観音像、一具の四天王像、弥勒浄土像、吉祥天像などが考えられる。建久六年三月には、中宮宜秋門院 (ぎしゅうもんいん)藤原任子着帯のために七仏薬師・延命菩薩像・不動明王像を造っている。明円の没年ははっきりしないが、間接的な資料から正治元年 (1199)の秋以降に亡くなったものと推測される。
 大覚寺五大明王像にみられる明円の作風は、東寺講堂の五大明王像を手本としな がらも、平安初期とは全く異なった藤原貴族の好みを反映させた優美さと洗練さを兼備した力作ということができる。


大覚寺 五大明王像の写真は、下記ホームページを参照下さい

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