仏 師

10.  快慶 (かいけい)

遺作豊かな安阿弥様

 快慶は生没年とも不明であるが、寿永二年(1183)に運慶が自ら発願し写経 をした法華経(運慶願経)の結縁者 (けちえんしゃ)の一人として快慶の名が見える。また、運慶が没した貞応二年(1223)十二月に醍醐寺閻魔堂(えんまどう)の諸像の制作に従事している ことから、ほぼ運慶と同年代に活躍した仏師で、運慶の父康慶の弟子と考えられている。

 快慶は多くの仏像に署名を残しており、日本彫刻史を通じて最も遺品にめぐまれた仏師の一人である。
 初めは、丹波講師、次は越後法橋と号したが、のち東大寺の復興事業に活躍した南無阿弥陀仏俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に帰依し、自ら安阿弥陀仏(あんなみだつ)と称した。「巧匠安阿弥陀仏」(「安」は梵字)また晩年には、「功匠法眼快慶」と署名した遺品が多い。
 重源上人関係の造像としては、 東大寺の僧形八幡神像、同寺俊乗堂阿弥陀如来立像などがある。また、重源上人が日本各地に設けた勧進の拠点となる東大寺別所である伊賀別所の三重・新大仏 寺の如来像(阿弥陀如来像を後世盧舎那仏像に改造)、播磨別所の兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像、阿弥陀如来立像(裸形像)などを残しており、信仰的にも重源 を慕って各地に同行し、造像活動を行ったことがわかる。
 また、晩年には浄土真宗の親鸞との交流もあり、各地の小寺院に安阿弥様の三尺前後の阿弥陀如来像を多く制作している。

  快慶の銘のある最も早い遺品は、文治五年(1189)十二月に自ら発願して造立した弥勒(みろく)菩薩像である。これは興福寺に伝わった像であるが、現在 は寺を出てボストン美術館の所蔵となっている。1mほどの小像であるが、体躯はひきしまり、顔も若々しく、快慶の初期の作風を今日に伝えている。建久三年 (1192)八月から十一月にかけては醍醐寺三宝院の弥勒像を制作した。この像は権僧正勝賢が願主となって造立したもので、快慶の初期の作風を代表する傑 作である。本像はきわめて保存がよく、体躯はそれまでの藤原彫刻とは違って量感があり、面相も優美ななかに力強さを持っている。眼には玉眼を入れ、いかに も生き生きとした表情を作り出している。
 快慶は建久五年か、それよりややあとに、京都遣迎院(けんごういん)の本尊釈迦・阿弥陀の二尊像を造 顕、また文治から建久の始めころ、奈良総持寺の本尊薬師如来像を造ったという。建久五年十二月から、東大寺南中門二天像のうち東方の多聞天像二丈三尺の本 像を快慶は小仏師十四人を率いて造り、また翌六年八月からは、東大寺大仏の脇侍二臂(ひ)如意輪観音像を、大仏師法橋定覚と丹波講師快慶とが半身を作り、 合せて一体とした。これらの巨像は惜しいことにその後の東大寺の火災によりすべて焼失してしまったが、治承四年(1180)の兵火で灰燼(かいじん)に帰 した東大寺、興福寺の復興期に磨かれ、当代並ぶものなしといわれた技量が、この間に大いに磨きがかけられたことは確かであろう。

 その間建久七年に東大寺の造仏賞に法橋に叙されたが、これを運慶の子息湛慶に譲っている。
  建久八年十月には、滋賀円福院の本尊釈迦如来像を造立、正治二年(1200)十二月には和歌山金剛峯寺の孔雀堂に安置すべき孔雀明王像を造顕した。翌建仁 元年十月には旧伊豆山常行堂の阿弥陀如来像(現在は広島・耕三寺蔵)を造立、同年十二月には東大寺の僧形(そうぎょう)八幡神像を造り終わった。この像は 土御門天皇をはじめ、後鳥羽院・後白河院そのほか多数の人々の協力により発願されたもので、もとは奈良手向山(たむけやま)八幡宮の御神体であったが、明 治の神仏分離の際、東大寺に移された。本像も快慶の代表作の一つである。その後快慶は建仁二年には東大寺の俊乗堂(しゅんじょうどう)の阿弥陀如来像を造 り、同年三重新大仏寺の本尊阿弥陀如来像を制作、翌三年五月には京都醍醐寺三宝院の不動明王像を造顕し、同年阿倍文殊院の文殊五尊像を造立した。このうち 俊乗堂の阿弥陀は、眉目秀麗で、まさにこうした作風の像を彼の号から「安阿弥様」と称する。「安阿弥様」とは、普通新しい写実主義に新渡来の宋朝美術を取 り入れ、さらに藤原時代の優美さを生かした快慶独自の様式をいう。また新大仏寺の阿弥陀如来像は頭部のみ当初のものが残り、体躯は後世のものに変わってし まつている。
 建仁三年七月から十月にかけて、快慶は運慶とともに東大寺南大門の仁王像を造立した。この仁王は両像とも運慶が総監督として制作に 当たっており、この中に快慶の作風を見出すことは出来ない。また同年11月には東大寺大仏殿の脇侍四天王像、南大門の諸天像の、大供養が行われたが、快慶 はこのときに法橋に叙せられたと推定される。また承久元年(1219)京都栂尾(とがのお)高山寺の半丈六の本尊釈迦如来像、承元二年(1208)四月に は快慶が願主となって京都石清水(いわしみず)八幡宮に僧形八幡画像を寄進し、承元2年9月1日重源上人の為に、東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像を造立し た。
 この年から四年の間に彼は法眼に叙されている。承元四年七月には京都青蓮院(しょうれんいん)の釈迦如来像、翌建暦元年五月には岡山東寿院 本尊阿弥陀如来像、建保三年(1215)六月には一尺五寸の弥勒菩薩像一躯を造り、翌四年三月から十月にかけて青蓮院の熾盛光曼茶羅(しじょうこうまんだ ら)の諸尊像を造顕、同年から承久二年にかけて、京都大報恩寺の目連・優婆離尊者の像の制作に従事した。承久元年から奈良長谷寺の本尊十一面観音像の再興 造営に携わり、十月には開眼供養が行われたが、この像も焼け、現在は室町時代の像に変わっている。承久三年には、奈良光林寺の阿弥陀如来像を造り、同じこ ろ高野山光台院の阿弥陀三尊像を造顕、これが快慶の在銘像の最後を飾っている。

 快慶の没年については明らかでないが、その後の文献で知 られる事績として、貞応二年(1223)十二月に醍醐寺閻魔堂の諸像の制作に従事しており、また京都府城陽市・極楽寺の阿弥陀如来立像(快慶の弟子・行快 の作)の胎内から発見された文書に嘉禄3年(1227年)の年紀と、この時点で快慶が故人であったことが記されていることから、1223〜1227年の間 に没したことは確かである。

 制作年代の不明な快慶の遺品としては、和歌山高野山遍照光院の阿弥陀如来像および四天王像、「安阿弥陀仏」 の造像銘を記す京都金剛院の執金剛神および深沙(じんじゃ)大将像、東京芸術大学蔵の大日如来坐像、「巧匠法橋快慶」東大寺公慶堂の地蔵菩薩像、「巧匠法 眼」時代の法眼時代の遺作としては、奈良西方院の阿弥陀如来像、京都大行寺の阿弥陀如来像がある。

 同じ慶派の中にあって、運慶が活動的にして剛毅な表現を得意としたのに対して、快慶はその初期の醍醐寺三宝院の弥勒像以来、一貫して静止的な優美で温和なものを重視した典型的な形式を創始し、運慶とはまた違った鎌倉新様式を作り出し後世まで大きな影響を及ぼした。
 東寺の文献たる長谷寺再興縁起に「仏師法眼快慶安阿弥陀仏と号す、当世殆ど肩を並ぶもの無き人なり」云々と記されているのは決して過言ではない。

 


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