仏 師

12.  定慶 (じょうけい)

同名異人の三仏師
 鎌倉時代には、定慶という同名異人の仏師が少なくとも三人はいたと思われる。

 最もよく知られている定慶が大仏師法印定慶である。定慶の師弟関係、生没年等は未詳であるが、その遺品は興福寺を中心に多く残されており、肥後定慶と区別するため、春日定慶とも称される。
  定慶の最初の作品は奈良元興寺に残る舞楽面を模して、寿永3年(1184)春日大社の散手面である。また建久7年(1196)に興福寺東金堂維摩居士(ゆ いまこじ)像を造り、建仁元年(1201)から翌2年にかけて、梵天像、帝釈天像(帝釈天は根津美術館蔵)を制作している。

 春日大社所蔵散手面 は、当代の他の舞楽面に比べて柄も大きい。全面にみられる朱漆による彩色や眉や髭は後補である。興福寺金堂の維摩居士像は、病をおして文殊菩薩と問答する 姿で造られ、頭巾をかぶり額に雛を作り両眉を寄せるなど、写実的表現が巧みである。梵天・帝釈天の両像は、小仏師永賀・慶賀・定賀・盛賀を率いて制作 したことが知られているが、両像とも宝髻を大きく高く結い上げ、衣文のひだを複雑に彫り出すなど、定慶が宋朝様式を色濃く取り入れていたことがわかる。
 この他、建仁元年(1201)頃に制作されたと考えられる西金堂の金剛力士像二躯および東金堂の十二神将像も定慶またはその一派の制作と考えられる。

 以上の現存像はすべて興福寺に残されており、興福寺を中心に造像を行った慶派の中でも特に専属的に活躍した仏師と考えられる。定慶は、運慶・快慶と並び鎌倉彫刻様式を創造した代表的仏師であるが、その造形には、粘り強い衣文の表現など、運慶や快慶とは異なる、独自の写実的な作風 が見られる。特に、金剛力士像の表現は、運慶・快慶らが関わった東大寺南大門の仁王像が筋骨隆々とした姿を表すのに対して、興福寺像は、誇張のない洗練さ れた肉感的表現が見られるのは注目すべきであろう。


 

 大仏師肥後法眼定慶は、肥後法橋と名乗った事から肥後定慶と呼ばれている。
  確認できる遺品は六件現存しており、そのうちで最も古い遺品が、貞応3年(1224)制作の東京芸術大学所蔵毘沙門天像である。この像は、静岡願成就院像 (運慶作)や高知雪渓寺(せっけい)像(湛慶作)と作風がよく似ており、作者が慶派の流れをくむ仏師であることが推定される。また同じ貞応3年には、京都 大報恩寺(千本釈迦堂の聖観音・千手観音・十一面観観音・馬頭観音・准胝(じゅんてい)・如意輪観音の六観音像を制作している。本像はもと北野天満宮経王 堂にあったもので、六躯のうちの准胝観音像の胎内に銘がある。

 嘉禄二年(1226)制作の京都・鞍馬寺の聖観音立像は、足ほぞの墨書から安貞 二年(1228)に鞍馬寺に安置されたことがわかる。大報恩寺の六観音像と同様に、髻を大きく高く結い上げ、衣文を複雑に彫り出した典型的な宋朝様式の影響が見られ る。その後、仁治3年(1242)小仏師貞明、朝慶、定智、春慶を率いて、兵庫・石龕寺の金剛力士像を、建長8年(1256)小仏師長慶、朝慶を率いて岐阜・横 蔵寺の金剛力士像を造っている。
 この他、記録の上では、寛喜元年(1229)高山寺三重塔の文殊菩薩像、嘉禎元年(1235)故竹御所の仏像を造っている。

  肥後定慶は、石龕寺の金剛力士像の銘記に、仁治3年(1242)、59歳であったことが記されており、生年は元暦元年(1184)であることがわ かる。また同じ銘に「大仏師南方派肥後法橋」とあることから、奈良(南方)の仏師であり、横蔵寺の金剛力士像の銘に「坪坂住大仏師法眼大和尚位」と あることから、晩年は壺阪(奈良県高市郡高取町)に住み、法眼の僧位を持っていたことが知られる。
 肥後定慶の像は、現実的な面相表現、細身の体型、複雑な髪型、煩雑で装飾的な衣文などに特色があり、特に鞍馬寺聖観音立像の細身で女性的な表現は、慶派の多様性を感じさせるものである。


 鎌倉時代には、もう一人定慶を名乗る仏師がいる。仏師越前法橋定慶(1246〜?)である。弘安6年(1283)法隆寺西円堂の本尊薬師如来坐像を修復し、その翌年、生年29歳にして法隆寺新堂の日光・月光両菩薩立像を修復したことが知られる。

 


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