仏 師

4.  定朝 (じょうちょう)

仏 像彫刻の模範、定朝様の完成
 
 定朝は平安後期の藤原彫刻を代表する一代の名匠である。定朝の確実な遺品は、宇治平等院鳳鳳堂の阿弥陀如来坐像のみであるが、文書等により数多くの造仏を 行ったことが知られており、その中で築き上げた「定朝様式」が、日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻の上に決定的な影響を及ぼした。
 定朝が 登場する以前の平安前期の彫刻は、大陸文化の影響を強く受けた飛鳥・白鳳・天平といった古代彫刻の余韻を残すもの、神秘的・官能的色彩の強いもの、あるい は威圧的で量感を強調するものなどが造られていた。このことは、平安前期の彫刻が徐々にではあるが唐風から抜け出し、和様化への道を模索し試行を重ねてい た時代であったことを物語っている。定朝はこうした密教系、木彫系、木心乾漆系、檀像系といった多彩な彫刻様式を見事に集大成し、真に和様と呼ぶにふさわ しい仏像彫刻の一典型を完成した。尊容満月の如しと賞讃され、正に藤原時代を象徴する典雅な定朝様式は、慈悲にあふれる仏の理想の姿を完壁に具現した基準 作として、永く造仏の模範と仰がれたのである。
 定朝はまた、技法の面でも、十世紀までの彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造から、数本の木を組み合わせて造る寄木造の手法を生み出してい る。
  寄木造の発見は、多数の仏師が同時に仕事に取りかかり、一度に多くの巨像造りが可能になり、運搬にも好都合という画期的な造仏法でもあった。定朝は、仏師 として初めて僧侶の位であった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受けており、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したとい う評価を受けただけではなく、必然的に仏師の社会的地位や名誉も公認されるという革新的な役割も果たすことになった。
 また、それまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し多くの造仏を行うというシステムを造り上げた。 
  定朝の父は仏師の康尚で、皇室や藤原氏一門、高野山や比叡山などによる造仏を手がけ、当時は第一級の仏師であった。史料にみられるその活躍期は、正暦二年 (991)から寛仁四年(1020)ごろまでで、京都を中心に多くの造仏を行っている。康尚の遺作として確証あるものは明確を期し難いが、京都同聚院にあ る木造不動明王坐像が、その遺作ではないかと見られている。この作品には前時代とは明らかに異なる、洗練された優雅な不動明王像の型がすでに生れており、 康尚の存在なくして定朝様式の誕生のなかったことがうかがえる。
 定朝が記録の上で登場するのは、寛仁四年頃の制作とみられる藤原道長発願になる 法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の丈六仏九躯を、父康尚とともに造ったときである。定朝は、この二年後の治安二年夏、同じく道長による法成寺金堂及び五大 堂の造仏賞として、仏師では初めて法橋に叙せられる。完好なる造仏が藤原貴族の魂を捉えた故でもあったと思われるが、氏長者(うじのちょうじゃ)であった 道長の知遇を受け、その後数々の大規模な造仏にも携わることになる。永承三年(1068)には、藤原氏の氏寺興福寺における造仏賞により法眼にすすんでい る。定朝の主な事績は次のようなものが挙げられる。

○ 寛仁四年(1020) 法成寺無量寿院で丈六阿弥陀仏九躯、脇侍の観音・勢至菩薩、 四天王像等を父康尚のもとで造る。
○ 治安二年(1022) 法成寺金堂及び五大堂に安置する大日如来像他計十六躯を造り、こ れにより法橋に叙される。仏師として僧綱位を受けた初例。
○ 治安四年 法成寺薬師堂の七仏薬師、日光・月光、六観音を造る。
○ 万寿三年(1026) 中宮威子の出産祈祷にため等身の仏像二十七躯を大仏師21人、小 仏師105人で造る。
○ 万寿四年(1027) 三尺の阿弥陀如来を造る。
○ 長元九年(1036) 後一条天皇崩御後の仏寺のための造仏。
○ 長久元年(1040) 後朱雀天皇の念持仏として純銀製一尺の薬師如来像を造る。
○ 長久二年 花宴のため龍頭鶴首(りゅうとうげきしゅ)船の龍頭を造る。
○ 永承三年(1048) 興福寺造仏により法眼に叙される。
○ 天喜元年(1053) 宇治平等院鳳鳳堂の阿弥陀如来坐像等の造仏を行う。
平等院は道長の子、関白左大臣頼通が宇治の別業に建築した寺で、定朝の現存する唯一の作 品。
○ 天喜二年以前に京都西院邦恒堂の丈六阿弥陀如来像を造仏する。
西院邦恒堂は、藤原邦恒(986〜1067)が、西院の領所に営んだ阿弥陀堂で、白河上 皇が臨幸に際し、尊容満月の如しと評され、その後仏師院朝が造仏の参考とするため細部の採寸を行うなど、仏の本様として永く仏像彫刻の規範となった。
 定朝はこの、薬師寺庫院八角円堂の丈六釈迦像、六波羅蜜寺等身地蔵像なども造ったとされ、天喜五年 に没している。

  定朝唯一の遺作である平等院鳳鳳堂の阿弥陀如来像は、まさにその完成期を飾るにふさわしい各作である。この丈六(国宝、像高283.9cm)の木造阿弥陀 如来坐像は、定印(じょういん)を結び八重の蓮華台座上に結跏趺坐(けっかふざ)する。造像には数個の檜材を組み合わせ、頭部・体部の基本部をつくり、更 に内側から入念な内刳りが施されている。すなわち典型的な寄木造、漆箔仕上げになるもので、金箔がよく残り、金色燦然としている。お顔は切れ長の眼を半眼 に開き、眉や眼の線も穏やかで、ふっくらと丸味があり、親しみ深くしかも気品に溢れている。体はどの部分をとっても殊更に誇張したところがなく、頭・胸・ 腹・膝の各部も豊かなうえに均衡が保たれている。頭部の螺髪(らほつ)は細かい粒で整然とまとめられ、衣文の彫りも深くなく軽快な起伏をもって柔かく処理 され、定印の姿もきわめて安定し、華麗ななかにも充実感が感じられる。本尊を荘厳する光背、天蓋も技巧の粋を尽して見事である。
 光背は木造漆箔 の二重円光で、中央二重円相部には雲文が浮彫りされ、外縁部には雲煙と八躯の飛天が透し彫りされている。天蓋も長方形の大天蓋の内側に、さらに円形の花蓋 が取りつけられ、いずれも精巧な金色の宝相唐草文の透彫りが施され、華やかさをいっそう加えている。堂内長押(なげし)に懸けられている総計五十二躯の雲 中供養(うんちゅうくようぼさつ)菩薩像も、本尊同様注目に値いする。数躯は後補のものもみられるが、雲上の蓮華座にあるいは楽器を奏で、あるいは合掌す るこの一群は、軽やかで変化に富み、ともに創建当初定朝一門の手になったものと考えられる。
 なお、鳳鳳堂は本尊を囲んで、台座、光背、天蓋、雲 中供養仏、さらには扉や壁にも九品阿弥陀来迎図などが描かれ、堂内寸分の隙もない荘厳さで構成されており、正に藤原貴族が希求した極楽浄土を目のあたりに 現出したものであったということができる。かくして、定朝の創出によって確立された和様彫刻は、その後一世紀半にわたって、日本各地へと波及していくので ある。

 





平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像、六波羅蜜寺地蔵菩薩立像の写真は、下記ホームページを参照下さい。
平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像:平 等院の公式ホームページ から「平等院探訪」 → 「国宝仏像紹介
             (阿弥陀如来坐像雲中供養菩薩像超高精細画像を見ることが出来ます)
六波羅蜜寺地蔵菩薩立像:六 波羅蜜寺ホームページ から 「寺史」 → 地蔵菩薩立像

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