仏 師

5.  長勢 (ちょうせい)

藤 原盛期の基準作家
 長勢は定朝亡きあとの藤原盛期、すなわち十一世紀後半にかけて、 定朝がつくりあげた彫刻の和様化を堅持発展させつつ、他方、仏師機構をいっそう整備充実するとともに、初めてこの分野では最高位の法印に叙せられた名匠で ある。長勢は定朝の高弟で、記録に現われた事蹟によると、まず治暦元年(1065)、天喜六年(1058)、二月に焼失した法成寺(ほうじょうじ)の造仏 賞として、この秋定朝の子覚助より先に法橋位を授けられた。長勢はすでに五十歳に達していたが、この頃から定朝の後継者としての不動の位置が固まったとみ られる。法成寺の復興造営中の康平七年(1064)には、京都太秦(うずまさ)広隆寺の日光・月光菩薩像および十二神将像を造っており、これらは 現存する長勢唯一の遺作として極めて重要な作品といえる。
 延長二年(1070)には円宗寺の金堂を長勢が、講堂を覚助が受持ち、その造仏賞によりともに法眼にすすんだ。
 長勢はこのとき約二か月かかって像高二丈の盧舎那(るしゃな)仏像、梵天・帝釈天、四天王像計九躯を造りあげている。ついで長勢の造仏中最も注目される 承保二年(1075)六月、白河天皇発願になる法勝寺の造営に携わったことである。法勝寺はこの時代の仏教文化を代表する六勝寺、すなわち法勝寺・尊勝 寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の最初に造営されたものであり、壮麗を極めた大寺院であった。
 長勢は阿弥陀堂を担当し、丈六の阿弥陀如来像九躯、像高一丈の脇侍の観音勢至二躯、像高六尺の四天王像一躯を造っている。
 承暦元年(1077)十二月、法勝寺講堂と阿弥陀堂の造仏賞として最高位の法印を受ける。
 ついで永保三年(1083)には法勝寺の塔・薬師堂・八角堂に安置する造仏を行い、応徳二年(1085)には常行堂に九躯の阿弥陀如来像を造った。この 外、下醍醐中院の半丈六本尊、阿弥陀如来像も長勢作と伝えられており、寛治五年(1091)十一月九日、八十二歳をもって没した。
 長勢の遺作、太秦広隆寺の日光・月光菩薩(重文、木造漆箔、彩色、日光菩薩・像高175.0cm、月光菩薩・像高174cm)は、十二神将像同様、康平 七年藤原資長の発願により同寺の本尊・霊験薬師の脇侍として、法橋長勢がその一門を率いて造仏したものである。この日光・月光像は、平安前期の特徴であ る、人を威圧するが如き形態や量感は姿を消し、肩から腰部、脚部へと流れるなだらかな優美な線で構成されている。面相も慈悲にあふれた優しい表情であり、 全体に藤原貴族が好んだ典雅な気品が漂っている。肉身部および裳の裏返しの部分に金箔を施し、いっそう繊細な美しさを出している。平等院の阿弥陀如来像に よって完成をみた彫刻和様化の造型が、長勢によっていっそう雅びな展開と結晶をとげたことがうかがえる。
 十二神将像(国宝、木造、像高各112〜120cm、十二躯)は寄木造で彩色を施す。この神将像は、先の奈良時代、また後の鎌倉時寺代にみられる誇張さ れた忿怒の面相や形態をとらず、均衡のとれた穏やかな天部像であり、唐様を脱却した洗練された和様化を実現している。その手法は、甲冑や衣文など細部ま でこまかい配慮がゆき届き、刀法もすぐれており静穏の中にも気品と優雅を備えた、まさに藤原盛期を飾るにふさわしい基準作ということができる。

 


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