三 月 堂
 
(1/2)

高見 徹

 

 東大寺の造営、金銅盧舎那仏の鋳造が始められる以前に、すでにその地にいくつかの 堂宇をもつ金鐘寺があった。この金鐘寺は、天平五年(734)の創建とされるが、創建当時は草庵程度のものであり、その金鐘寺が、天平十三年(742)の 国分寺建立の詔に呼応し、大和国分寺(天平十四年頃から金光明寺と呼ぱれる)となり、後に東大寺が造建されるに至って、その堂宇が東大寺にとり入れられた ものとされている。三月堂の前身たる羂索堂の造営年次については、東大寺要録など、その年次を推定する文献はあるものの、それを確認するに足る緊密な資料 に乏しく、一般に天平五年とされるが、福山敏男など、特に歴史家の間にそれを否定するものが多い。ただ、正倉院古文書のうち、天平勝宝元年(749)九月 二十日の東大寺写経注文に羂索堂の名が見えているので、遅くとも天平勝宝元年には完成か、あるいは完成に近い状態にあったことがわかるのである。

 この三月堂の本尊不空羂索観音像については、正倉院文書中の一天平十九年正月の. 「金光明寺造物所解案」によって、その造立年次が推定されている。

 

金光明寺増物所解 申請鉄事
 鉄弐拾梃
右為造羂索并光柄花蕚等物所請如件以解
天平十九年正月八日史生大初位上田辺史

 造仏長官従五位下国

(羂索菩薩の光背や花弁を作るために鉄二十挺を申請する)

 

 この中にみられる羂索菩薩が、今の三月堂本尊不空羂索観音像だとして、天平十九年 か二十年に造立された、あるいは光背の完成がそのころで、本尊は、羂索堂において初めて大法会・法華会がもうけられたとされる天平十八年三月十六日にすで に完成していた、というように考えられているのである。

 ただ、現三月堂本尊の光背は乾漆造で、鉄はほとんど使われていないところから、こ の羅索菩薩は三月堂本尊不空羂索観音像のことではないとする説もあり、福山敏男は、当時の東大寺には本像以外にこれにあたると思われる不空羂索観音像はみ あたらないものの、興福寺ではその頃丈六の不空羂索観音像が造られ(後に南円堂本尊となる)、それは、天平十八年に亡くなった牟漏女王の一周忌に供養され たものであるから、天平十九年正月には装飾品をつけるだけになっており、また、光明皇后と縁故の深い興福寺の像が、金光明寺造物所で造られたとしても不思 議はない、などの理由から、羂索菩薩は興福寺の像のことであるとして、源豊宗が出した天平十八年造立説を否定した。

 しかし、光背の装飾として、あるいは天蓋の部分に類するものが付属しなかったとは 断言できないとして、小林剛など、「金光明寺造物所解案」と本尊を結びつける支持者も多い。小林剛は、天平十二年九月の国別に高七尺観音像を作らしむるこ と、との詔が、不空羂索観音像造立の来由となり、翌年の国分寺建立の詔に対応して造立がはじめられ、天平十八年三月の法華会始行時が本尊と本堂の完成時、 天平十九年が光背、装飾具の完成であるとする。

 本像の造立については、また西川新次のように本像の造立をもっと早い時期におく説 もあり、造立を天平年間、或は、天平勝宝以前とすることにおいては諸説一致していみが、そのいづれの年紀あてるかは、文献上から之を確定しがたいのが現状 である。

 

 その外観上の特色としては、金森遵が特に下半身の衣文線に関して次のように述べて いる。飛鳥彫刻以来の直角的断面の衣文から離れたものであるが、皺の線そのものは単調な平行線であること、両肩から垂れる天衣を膝の前で交叉させる手法 (法隆寺金堂釈迦三尊の脇侍・百済観音などに見られる)とともに、飛鳥以来の古法を消化しきっていない。また金森は、本像が薬師寺薬師三尊と唐招提寺金堂 の盧舎那仏との中間に位置し、その衣文線に於いて形式化していることなど、唐招提寺像の写実性に大きなへだたりがあり薬師寺像に近い、としながらも、薬師 寺像の明快な面相に比べで暗く、同じように密教の影響を強く受けた唐招提寺像と同系列であるとする。

 同じ天平時代の輿福寺西金堂の脱乾漆十大弟子像と比較しても、不空羂索観音像に は、十大弟子像のような明かるさはなく、当時、日本にもたらされた法華経、大仏の背景となった梵網教など、密教系の経典の影響が、その森厳な表情の中に感 じられる。

 三月堂には、天平彫刻とされるものが、乾漆像九体、塑像五体現存している。之らの 諸仏が、全て最初から堂内に安置されていたのでないことはいうまでもないが、どれを本尊と一具となすものとするかについては、梵天・帝釈天像、四天王像、 金剛力士像二体を一具とする説、塑像の日光、月光菩薩像、あるいはそれに加えて戒壇院の四天王像とを一具とする説など、いろいろである。

 一般に、本尊と同一素材である八体の脱乾漆像を、その作風と技法から、本尊と一具 をなすものと考えられているが、ただひとつ間題となるのは、脇侍たる、梵天・帝釈夫像が本尊の不空羂索観音像より一尺五寸程高いということである。像高に おいて、本尊の方が脇侍よりも低いということはその前例がない。

 金森遵は、この点を取り上げ、次のように梵天・帝釈天像を他堂からの流入像とす る。

 今、この不空羂索観音像をよく眺めて見ると、その光背が、本来の位置、つまり額の 中央の眼を中心に円をえがいて円光があるべきなのに、肩のあたりまで下っている。之は本像の下に何かを加えた時に光背が天井にぷつかり(やむをえず光背を ずらしたものと考えられる。従来は、堂内のすべての仏像がその上に乗る大須弥壇が鎌倉時代の付加であり、それが付け加えられた時に光背が天井につかえた為 ずらしたと考えられていたが、その後の浅野清のくわしい研究によると、本尊の床は従来考えられていたような土間ではなく、柱の風蝕状態や、柱に残る縁長押 を取り付けた跡と思われる栓などから、大須弥壇は本堂創建当初のものであって、内陣は礼堂などと同じ高さに床が張られていたということであるから、この光 背のずれは、本尊の乗る八角二重座によるものであり、つまりこの八角二重座は後に加えられたものと考えなければならない。之にあたるものとしては、同じ金 鐘寺の阿弥陀堂にあったという記載の残されている「八本の柱によって支えられた八角形の蓋をもつ二重の基壇」がそれにあたり、またその上面にあけられてい る、現状ではその必要を認めがたい八個の小孔は、天蓋を支える八本の柱をさし込む為のものと考えられる。

 なおこの阿弥陀堂は天平十三年の造立で、永祚元年(989)に大風で倒れているの で、この頃に羂索院に移されたとする。

 この様に、本尊及ぴ梵天・帝釈天像のいずれかが、後に地の堂から移され、その時点 において余りに本尊が低いために、その下に二重八角座をおいたと考えられる。脱乾漆像というものは、麻布を漆でかためていくという造法上、乾漆の乾燥によ る歪形(ちぢみ)はまぬがれ得ない。このひずみの度合は、張子像(脱乾漆像は粘土で形を作りその上に麻布を漆で固めて張ってゆき、それが乾いたあとで粘土 を取り除くので丁度張子のようになる)を保持するためにその胎内に入れる心木(木組)の精粗に主に起因すると考えられるが、今、梵天・帝釈天像、四天王 像、力士像の三群の諸像を見ると、梵天・帝釈天像のひずみが一番大きく、抑揚に乏しく平面的になっているのに対し、力士像二体は、抑揚も可成り豊かにな り、ひずみは最も少ない。四天王像はその中間に位置し、本尊に近く、本尊と一具と考えられる。このことより先程の話に戻って、今、本尊と四天王像(あるい は之に力士像も加えて)と梵天・帝釈天像との二群が考えられ、本尊と四天王像が現法華堂と格好の大きさであり、梵天帝釈天像がもし本来像であるとすれば、 中尊が大きすぎて堂内に入りえないなどのことから、不空羂索観音像と四天王像、あるいは力士像が法華堂本来の像であって、梵釈二天像を地の堂から移された と考えるのである。

 また小林剛は同様に、梵天・帝釈天像が本尊に対して大きすぎる事を取りあげ、塑像 の日光・月光像およぴ、現在戒壇院にある四天王像が「本尊に対して、まことに恰好な大きさ」であり、また、乾漆像八体の造形にぼんやりしたゆるみがみら れ、奈良末期を遡り得ないなどの理由で、塑像のこれらの像を本尊の脇侍であるとした。金森遵も先程の説で、梵天・帝釈天像を地の堂からの流入像とすると、 脇侍を欠くということになるため、日光、月光像の脇侍の可能性についても考証しているが、この場合と同様、本尊と脇侍との素材と像高が全く異なる例とし て、唐招提寺金堂の盧舎那仏像と、梵天・帝釈天像をあげ乍らも、唐招提寺の場合は、堂が巨像三体のみを入れるために設計されたらしく、本尊に似合う脇侍を 置くには狭すぎるのに対して、法華堂の場合は、内陣に充分の余地があり、当時の東大寺としては、本尊に似合う脇侍を作るに十分な条件を揃えていたとして、 日光、月光脇侍説を否定している。

 この金森説、小林説に対しては、西川新次が、八角二重座は、梵天、帝釈天像が脇侍 として造立された際に、本尊の威容を増すためにその下に加えられ、梵天、帝択天像の大きさは、この仏壇に乗った本尊との均合から割出された、として、本 尊、脇侍間の像高の矛盾を解決しようとした。

  

     

 
inserted by FC2 system